[#表紙(表紙.jpg)] 池波正太郎 わたくしの旅 池波正太郎未刊行エッセイ集2 目 次  このごろ  薬味  「幕末残酷物語」  伏見桃山城  悪友同窓会  「幸吉八方ころがし」永井竜男著  星と水  時代小説について  必要なのは年期  なまけもの  優美な戦陣の詩情——柏木兎《かしわにみみずく》螺鈿鞍《らでんのくら》——  痔用体操  師のにおい  「七卿西遷小史」中野泰雄著  旅のメモから  私の酒  古都との対話  ジ用体操一、二ッ、三  道楽の旅  安兵衛の旅  現代新婚図  二十五年ぶりの友  旧友たち  人が住む町  正之と容保  鹿児島  僕は食いしん坊  子どもと本屋さん  美味求真  私と犬  一番おもしろかった話「香典うなぎ」  隅田川  「彰義隊——上野戦争から五稜廓まで」木下宗一著  かしずかれる亭主の幸せ  久しぶりに……  討つもの討たれるもの  一度だけ  浅草  このごろ思うこと  二十余年前  新進画家  残心  悪のなかの善  わたしの青春記  気風《きつぷ》と律義《りちぎ》と  鍵屋の辻をゆく  食道楽  美女二十人の顔を占う  時代小説の食べもの  「わたくしの旅」メモ [#改ページ]   このごろ  この秋、はじめて仲人というものをやった。  新郎新婦とも旧知の間柄だったし、別にいそがしい思いをしたわけではないが、それにしても、このはじめての経験は私にとってためになることが多かった。  そして、あらためて人と家とのつながりというものをいろいろに考えさせられた。  家族制度などというあいまいな言葉で片づけてしまえるものではない一個の人間と、その背後にある家(家族・親族をふくめて)との関係は、いうまでもなくその集合によって一民族一国家が成立しているわけなのだから、私にしてみれば、自分が書いている時代小説の中に、さまざまなかたちでこのテーマをさぐりつづけることを当分はやって行くことだろう。  それはさておき、いまの私は十二月の旅のことで頭がいっぱいなのである。一年の間には何度も旅をするが、これは仕事中心のものだし、それだけに行先もきめずにのんびりと歩きまわり何も彼も忘れてよく飲み、食べる、年末のアカおとしの旅は実にたのしいもので、これがもう十年来の慣例となってしまった。 [#地付き](朝日新聞・昭和三十九年十一月十九日)  [#改ページ]   薬味  今年の猛暑にも、病気ひとつせずにすごすことが出来た。  生まれてから医者の厄介になったのは、外傷と歯科のみであるが、四十をこえた現在、いろいろと気になることもある。  先日、生命保険に入ったとき、保険医の診断をうけたところ、 「御立派です。まったく保険向きの体です」  と、ほめられた。  悪くない気持であったが、そのときの医者の話では、 「こういうせせこましい時代になればなるほど、つとめて工夫をこらし、気をゆるやかに持って暮せるようにすることが、健康に一番大切なことです」  と、いうことだった。  私ども戦争へ出て行って生き残って来たものは、あのときのすさまじい経験から、いつも「死」を考えることが多い。私のように時代小説を書いていると、何人もの古今の人物の生から死までを歴史の中に見とどけるわけだからなおさらのことだ。  だからといって、私は別に「死」をむずかしく考えていない。  わかっていることは、人間は百歳まで生きてはいられぬ動物なのだ、ということと、人間にとって最も確実なものは死に向かって歩みつづけている、ということぐらいなものである。  ここに、日本人的な、仏教的な或《あ》る種の諦観《ていかん》が生まれる。  すると、さまざまな欲望や苦悩からも解き放たれるし、妙に心身が、らくらくとなることも事実だ。案外《あんがい》、こうした東洋的な思念が健康の薬味になっているのではないか。ちかごろ、ふっと、そう思うことがある。 [#地付き](保健同人・昭和三十九年十二月号)  [#改ページ]   「幕末残酷物語」  全編、殺りくの血のにおいにみちみちた異常な映画であった。  この映画が、一時流行をした日本軍隊残酷物語を「新選組」にあてはめたことは、ただちに看取される。  とん所が兵営であり、新入隊士が新兵であるというわけだ。この映画にえがかれた「新選組」は「史上に名をはせた新選組は殺りくの集団であり、美名の下で人殺しを平然と行なう恐るべき組織だった」と、映画の解説にもある通り、すべては、この主題にはめこまれ、わい曲されつくした変形新選組なのである。  主人公(大川橋蔵)が、おじの芹沢鴨のあだをうつべく、勤王倒幕派のスパイとなって新選組にはいりこみ、ついに発見されてなぶり殺しにあう、というのが、そのストーリーだが、この主人公のスパイとしての苦悩も生き方も画面にはあらわれてこない。  なぜなら種明かしをしてしまっては、あまり感心できぬラストの�どんでん返し�がきかなくなるからだ。  したがって映画は、主人公の姿をうつし出してはいても、新選組の残酷行為をヘドが出るまでに追いかけているだけだ。  いったい、この映画はどういう意図のもとにつくられたのか……。解説には「新選組の裏側をリアルにえぐった大作」とあるが、わい曲して残虐の鋳型《いがた》にはめこんだだけではリアリズム芸術にはならぬ。  また、この映画を娯楽作品として橋蔵ファンに提供しようというつもりでもあるまい。おそらく、この映画を見た橋蔵ファンは、血と汗とふん尿のごときにおいにまみれて奮演する彼にアイソをつかすことであろう。  この映画の収穫は、オープン・セットにたてられた新選組とん所外景の、いかにもそれらしい映像と、女中�さと�を演ずる藤純子の新鮮な魅力と、沖田総司(河原崎長一郎)の風格のよろしさであった。 [#地付き](スクラップブック・新聞・昭和三十九年十二月八日・新映画みたまま) [#改ページ]   伏見桃山城  新しい連載小説の調べで、また、京都へ行った。今年に入ってから、もう何度目だろう。  去年も、七、八回は京都に行っているくせに、新しい小説の背景に京都附近が必要になってくると、(見残している)ことに、気がつくのである。京都及びその周辺は、見れば見るほど深いものを蔵し、まだまだ見切れるまでは何年もかかることを、あらためて知るわけだ。     ○  ステーション・ホテルの六階の部屋へ入った。  夕暮れである。  この部屋には、去年から今年にかけて、少くとも、五、六回は泊っていた筈《はず》だ。  それでいて、気がつかなかった。 「おや……?」南の窓から外を、ふっと眺めて、 (伏見の城じゃないか、あれは……?)  すぐに双眼鏡で見て、それをたしかめた。  やはり、間違いがなかった。  伏見桃山城の再建は、昭和三十五年の夏ごろから、はじめられた。  私が、三十六年の晩夏に、伏見の町をおとずれたとき、六重の天守閣の外観のみが、コンクリイトによって、つくりあげられていたものだ。  そこの建築事務所で、私は「桃山伏見城」という毎月刊行のパンフレットや地図をもらった。伏見城の再建は桃山観光開発協会だか株式会社だかによって行われようとしているらしかった。  そのコンクリイトの外観を見ただけでも、この再建が古城の忠実な復元を目ざしたものではなく、あくまでも観光のためによるものだと、すぐにわかった。ところが、この伏見城は、白茶けたコンクリイトの骨組みだけを残し、その後、工事が進まなくなってしまったのである。内部の事情は知らない。  しかし、伏見の町を通るたびに、汚らしいコンクリイトの残骸といってもよいような|それ《ヽヽ》に、私は何度も顔をしかめたものだ。  あまり汚らしいから取りこわす話も出ている……ということも、耳にはさんだ。     ○  ホテルの窓から、私は、伏見城をながめつづけた。夕闇が濃くなると、尚更《なおさら》に、コンクリイトの城は黒い外観を浮き上らせてき、本物の伏見城のように見えてきた。 (なるほど、豊臣秀吉は、さすがに、うまいところへ城をきずいたものだな)  と、今更《いまさら》のように、京都市中から伏見の城?をながめると、それが感じられる。  コンクリイトの城は、かつての本丸天守閣の位置に、忠実にたてられている。  それだけに、京の町をかこむ山脈が南にひらけて行く、その南端に、この城の影をのぞむことは、何となく時代小説を書く者の胸をおどらせるのである。  秀吉は、おそらく、京の都にもおとらぬ伏見の都をつくりあげる〔夢〕を抱いていたに違いない。その、彼の夢が、ひしひしと感じられるのだ。  翌日、山崎のあたりを車で走っていると、京都盆地のはるか彼方に、コンクリイトの伏見城が、ぽつねんと、さびしげにのぞまれた。この景観も一寸よいものであった。 「残骸でもいい。ブチこわさないでくれ」  と、私は胸のうちに叫んだ。 [#地付き](スクラップブック・昭和三十九年)  [#改ページ]   悪友同窓会  悪友という言葉のニュアンスには辞書にあるような〔交わってためにならぬ友〕などという定義には到底《とうてい》あてはまらぬものがある筈《はず》である。  寺内大吉(あえて敬称をつかわぬところに親しさをあらわしたつもりだ)と一緒《いつしよ》に旅行し、大吉つぁんのおそるべき食慾につきあったおかげで胃腸をこわしたなどというのは話にもなるまい。  私が新国劇の芝居を書いていたころ、辰巳柳太郎・島田正吾両先輩と稽古中に〔鳥の声を入れろ、入れない〕などということから、もめにもめて、 〔あいつは若僧のくせに憎たらしいやつだ〕  と、二人が思ったとしても、だからといって私は二人の悪い後輩でもあるまい。 〔悪友〕たる彼と我のつき合いのあった友人たちは、戦前にしか私にはいない。  十三の年から兵隊にとられるまで暮した株屋の暮しの中では、筆舌につくしがたい悪友がおり、|何から何まで《ヽヽヽヽヽヽ》教えられたものだが、そのころのことをとても二枚の原稿用紙に書けるものではなく、まだ老人にもなってはいない私には、それを語るに恥じることばかり多くて、書けたものではない。  だが、彼ら悪友との交わりは、私にとって、とても〔ためにならぬ〕ようなものではなく、そのころの身をもっての経験がなかったら、とても無能な私には〔小説〕を書いて食べて行くことなど思いもよらぬことであったろう。その多くが戦歿してしまった〔悪友〕たちに、私は感謝している。  あれほど、もろもろの賭事《かけごと》が大好きだった私が、戦後は、パチンコ一つやったことはないのだから、戦後の私には、悪友などがある筈がない。 [#地付き](小説現代・昭和三十九年十一月号)  [#改ページ]   「幸吉八方ころがし」永井竜男著  近年に物故したばかりの人物の伝記を書くのは、種々の意味で非常にむずかしいことである。 �真珠王�御木本幸吉翁の�人生�を追った、この永井氏の著書は、しかし、この困難な条件にもかかわらず、まことに快適な作品に仕立てあげられている。  かぎられた枚数で、くわしくのべて行くわけにはまいらぬが、先ず、読むものを酔わせるのは、品格正しい流麗簡潔な文章だ。  こうした文章を、この著者は、らくらくと書いているのか、推敲《すいこう》をかさねて苦しみつつ書いているのか、それはわからぬが、私が読んだところでは、大変に苦心をはらわれ、丹念な、凝《こ》った仕事をしておられるように見える。  しかも、文章はのびのびとしてよめる。  達文というのは、こうした文章をさすのであろう。ふくみを蔵しつつ、しかものびやかな……と、こんなことをかいていたらキリがあるまい。  御木本幸吉の�人間の力�にみちみちた奇人ぶりの底にひそんでいたものは何か——嗣子《しし》、隆三氏からの聞書によって、著者は、それをあらわしている。まことに賢明な態度といわざるを得ない。  隆三氏は「時には私には不愉快なこともあった……父につぐ私の血液の流れを遺伝という見地から正直に書きたいと思っても、それがある場合には、この小さい人間にさびしさをあたえるのではないか……父の一生は、正直な真摯《しんし》な人生を生きぬいた、淋しい人生記録そのもので……名誉心というか、異常につよくて、それも原因は、そんな物足りなさから来ているのではないかと……」などと語っている。  この聞書と、著者が丹念にあさり、えぐりとった幸吉翁の人生とが�表裏�をなして、全篇をいろどっている。推断は読者のものである。  そしてまた、その推断を読者それぞれへあたえ得るだけのカギを、著者は、いくつもならべておいてくれる。  伝記を書くものの、これはもっともすぐれた態度であるし、それだけに執筆の労力は底が深いのだ。  この書物には一枚の写真もなく、あとがきも前書もない。  ありきたりの伝記ではないのだ。 [#地付き](スクラップブック・新聞・昭和三十九年)  [#改ページ]   星と水 「スター・ダスト」という曲は、実に世界的な名曲なんですなあ。いや全く……と、友人のR君が、先日、私の家へ来て感嘆しきりである。  R君は二十六歳。新進の商業美術家で、ある美術印刷の会社につとめている。仕事の他には、音楽が好きだ。それもジャズが大好物で、デキシーからモダンに至るまで、ジャズなら何でもこいという明朗な好青年だ。  ジャズには暗い私も「スター・ダスト」がジャズのスタンダードで、ホーギイ・カーマイケルの作曲だということくらいは知っていた。カーマイケルというのは音楽家でもあり、映画俳優としてもなかなか味のあるひとなので、よくおぼえている。  その「スター・ダスト」に今更《いまさら》、何を感心しているのだと聞いたら、R君は、「田舎から伯母がやって来ましてね、此間《このあいだ》——」 「そうかい、そりゃよかったじゃないか。あんた、一度は東京見物させなきゃいかんて口癖みたいに言ってたもんな」  両親に早く死別れたR君は、女手一つで商売をしている未亡人の伯母さんに、少年時代から、わが子同様に可愛がってもらい面倒をかけてきている。  そしてR君は一人前になり、今年六十歳になる伯母さんは養子夫婦に店をまかせて、ようやく楽隠居の身になっているのだ。  半月ほど前に、R君は金をためて自分のアパートへ伯母を招《よ》び、一週間にわたって東京見物をさせた、そのときの或日《あるひ》の夜のことだ。 「伯母さん。レコードかけてもいいかい?」 「いいともよ——」  明治三十四年生まれの伯母にジャズはうるさかろうと思い、ずっと遠慮《えんりよ》していたのだが、がまんしきれなくなったか、R君は伯母にことわって、レコードをかけはじめた。二つ三つかけて、 「つまらんだろ? こんな音楽——」 「何や、ちんぷんかんぷんじゃねえ」 「そうだろなあ。もう一枚かけてやめるよ」 「いいよ、かけなさい、遠慮せんと——」  R君が、その次にかけたのが「スター・ダスト」だったという。しかも、ナット・キング・コールの歌唱によるものだ。  これを聞きながら、ふっと伯母さんの顔を見ると、伯母さん、陶然《とうぜん》と聞き惚れている様子なので、R君も一寸びっくりして、 「伯母さん、これ、わかるかい?」 「ああ……」と、伯母さん溜息《ためいき》のように答えたという。 「この歌をきいてると、空に散らばってるお星様が目に見えるようじゃねえ」 「スター・ダスト」——言うまでもなく(星くず)である。  僕等は題名を知って曲を聞くから、いかにも夜空の星くずをうたった名曲だと感じ入るが、伯母がそう言ったときには、びっくりしました——とR君は語った。  そのとき、私は、別の、もう一つの話をおもい出した。  それは——昔、それも大正年間に、ある名人会に於《おい》て、長唄「筑摩川」の三味線を聞いたドイツ人医師夫婦が、口を揃《そろ》えて、 「この曲は水の流れを表現していて、実にすばらしい」と讃嘆《さんたん》した挿話のことである。 「スター・ダスト」も「筑摩川」も、たしかに名曲に違いない。  しかし、全く何の予備知識もなく、しかも畠違いの異国の音楽を耳にして、その表現するところのものを、ぴたり感じとるという感受性をもったR君の伯母さんにも、かのドイツ人夫婦にも、いろいろと教えられるところがある。  この話は、われわれ芸術の仕事をするものに大きな希望を与えてくれる。  そして、今考えることは「スター・ダスト」や「筑摩川」を生んだ土壌《どじよう》をわれわれは確保しているだろうか——ということである。  私は、自分の小説の中に、色彩や匂いや音響やが、まざまざと感じられるような……そういう作品を、書けるようになりたいと何時も思っている。  思ってはいるが、なかなか難かしい。 [#地付き](スクラップブック・昭和三十九年)  [#改ページ]   時代小説について  時代小説を書くために、作家は、どういう作業をするものなのか……それを書けという編集部の注文である。  時代小説を書くものは、それぞれに独自のやり方で素材をあつめているし、勉強をしているので、そこにはペンにのらぬ直感的な作業もあるわけなのだが、この稿では、つとめて一般的なことがらについてのべてみたいと思う。  時代小説にとって、ぬきさしならぬ制約が、ざっと云って〔三つ〕ある。  第一に〔自然現象〕である。第二に〔制度〕である。そして第三に〔人間〕である。  これを一つ一つ、解きほぐして行ってみたい。   暦でみる昔と今 〔自然現象〕について云うと、先ず暦《こよみ》のことから始めなくてはなるまい。  現代は、むろん太陽暦であるが、チョンマゲ時代には陰暦を使用し、それが日本人の生活にとけこんでいたことは云うまでもない。  こころみに、手もとの歴史年表をひろげて見よう。  二六一ページが開いた。このページの元亀三年(西暦一五七二)の項を見ると十二月二十二日に武田信玄と徳川家康が浜松北方の高地、三方《みかた》ケ原《はら》において戦争をしている。  申すまでもなく、この十二月二十二日は陰暦のそれであるから、現代の季節にこれを直すと、およそ二月の三日か四日に当るのである。  そこで、私が三方ケ原の合戦を小説の舞台にのせる場合、風景の描写や気候の状態、および、それらのものを見、感じている登場人物の気持や肉体を原稿紙の上に再現するためには、現代の二月初旬のそれを参考にして行かねばならないわけである。  十二月と二月の場合は同じ冬であるから、場合によってはミスをすることもあるまいが、四月の末と六月の初めでは大変な違いが出て来るのだ。  自然現象というものの昔と今の違いを頭にたたきこんでおくことは、われわれが先ず始めに心がけてきたことである。   目まぐるしい制度のうつりかわり  次に〔制度〕である。  制度という語を、こころみに〔広辞苑〕によってひいてみよう。  制度——制定せられた法規。国の法則、法制……とある。  時代小説が扱う舞台は、平安時代、源平時代、鎌倉期、戦国時代、江戸時代とどこをとってもよいのだが、鎌倉時代よりさかのぼった時代を背景にした小説は数少く、江戸時代がもっとも多く、戦国時代がこれに次ぐ、といった現況である。  この時代の別によって、その時代時代の政治のあり方が、みんな違うのだ。  こころみに、封建の世といわれた江戸時代についてのべよう。  また〔広辞苑〕をひく。  封建——㈰封土を分けて諸大名を建てる意。㈪天皇の公領以外の土地を諸侯に分けあたえて領有させること……と、ある。  この時代に諸国をそれぞれに治めていた大名の、もう一つ上に、徳川幕府というものが存在していたことは云うをまたない。  そこで……。  領国を無事におさめているかぎり、そして徳川将軍の威令に屈しているかぎり大名たちは安泰なのであるから、大名たちは、それぞれの領国の風土、地形に適応した政令を発し、おのれの領国をおさめるということだ。  たとえば、敵討《かたきう》ちというものがある。  これは、A領内で殺人を犯しても、B領内へ逃げこんでしまえば、すでにそこは自分の国でないのだから、A領内をおさめるA大名の権力は、ほとんど力をうしなってしまうわけだ。  これでは、殺人が絶えない。世の中は殺バツになってくるばかりだ。  ここに、幕府公認の敵討ちの制度がうまれる。  殺された者の肉親が犯人を追って行き直接に罰を加えるというわけだ。  これが武士であった場合は、自分の殿様に一応はヒマをもらい、浪人の身となって敵を追いかけることになる。  つまり、他国領内において、どんなことが起ろうとも自分の殿様に迷惑はかけぬという〔立場〕をとるわけである。  このように、信州の松代《まつしろ》藩と、加賀の前田藩とでは〔制度〕が異なるわけだ。  そして、江戸市中における〔制度〕もまた違う。京も、大阪も、細かいところは、それぞれに違うのである。  このことを知るために、私どもがやった方法は……。  江戸のことを知ろうとする場合、「日本橋区史」とか「品川町史」とか、明治以後に各区の役所が、それぞれの区の歴史を編纂《へんさん》した本を熟読したものだ。  地方の、たとえば松代藩の制度その他を知ろうとすれば〔松代町史〕というすぐれた郷土史がある。  これらの古本は、現在まことに高価になってしまった。私が二年前に、一万五千円で買った〔岡崎市史〕は、三万五千円という高騰ぶりをしめしている。  そのかわり〔江戸生活辞典〕とか〔武家事典〕などという便利なものが新刊されてきているし、郷土史もまた戦後は諸方で再刊されている。しかし、やはり戦前に出版されたものの方が、仕事に念が入っていて同じ土地の郷土史でも断然違う。  こういう基礎的な勉強をつづけているうちに、自分の個性に合った小説の材料というものが自然に見つかって行くものなのだ。   時代時代に生きた人間像  次に〔人間〕である。  これは、前にのべた二つのことに大きく関係している。  つまり、しかるべき〔自然現象〕と〔制度〕の上に生きていた〔人間〕を描かなくては時代小説にならないのである。  そのことを、しっかりふまえた上で、現代人が読んでも古めかしくない新鮮な人物像をつくりあげなくてはならぬ。  だが、世は変っても、人間そのものの生き方なり本能なりは、それほどの進歩をしめしているわけではない。  むずかしいが、逆に、時代小説の制約を利用することも出来る。  しかし、千両箱を盗み出した盗賊が、これを軽々と片手でぶら下げて歩いたのでは、時代小説とはならないのだ。  小判のつまった千両箱が、どれだけの重さなのか、それを知らずに書くと、こういう泥棒があらわれてくる。  などと、私も大きなことを云ってはいるが、まだまだ知らぬことだらけであって、年々、失敗をかさねているのだ。  それだけに、時代小説を書く作家にはまた楽しみも多いようである。   まず、生活から  先年のことだが、中村メイコとラジオの番組で対談したことがある。  そのときも時代小説についてであったが、メイコ氏曰く、 「私、時代小説をよむとき、はじめに昔の年号や何かが出てくると、もう、めんどうくさくなって読む気がしなくなっちゃうんです」  いまの若い人たちには、文政何年何月何日という記述が出ただけで頭がいたくなってしまうのであろう。このように年号を書くとき、私はその下に西暦年号を入れることにしている。たとえば、文政元年(西暦一八一八)というようにである。すると一目で、現代より百四十五年前のことなのだな、とわかってもらえるからだ。  このように、戦後の歴史教育をうけた人々は、時代小説にあまり興味をもたなくなってきているようにもみえるが、それでいて、この小説のジャンルは、まだまだ当分は発展をつづけることと思う。  それは——新しい書き手が新鮮な時代小説をうみ出しはじめてきているし、読むほうでもまた昔の世に生きた人間像に興味をいだくようになってきつつあるからだ。  ともかく、戦前と戦後では、まったく時代小説の書き方が変ってきている。  私は昨年の暮に、小説新潮へ「鳥居|強《すね》右衛門」をかいた。  いまの若い人たちは、強右衛門の名をきいても、どんなことをした男か、ピンとこないだろうが、私どもが少年のころ強右衛門の忠勇無双の物語は誰でも一度は耳にしたことがある筈《はず》である。  武田の大軍にかこまれた長篠《ながしの》城を脱出し、織田・徳川の援軍を乞《こ》いに敵中を突破、見事に役目を果した上、なおも、援軍を待ちこがれる城中の味方へこのことを知らせるため、危険をおかして只《ただ》ひとり城へ引返す。そして、ついに武田軍にとらえられる。  武田方では、強右衛門を城の前へ引き出し「もう援軍は来ないから、あきらめて降伏するように——」と云わせようとする。その通りにすれば、お前を武田方へ引き取り出世させてやるというのだ。一も二もなく強右衛門は承知をする。そして、いざというときになると「援軍はそこまで来ているから、いま少しの辛抱である。心を合せてがんばってくれ」と叫ぶのである。このため、彼は武田軍の手によって無惨なハリツケの刑をうけ、死ぬ——という、立派な話である。戦前の時代なら、このまま書いても通用したろうが、今では、そうは行かない。  忠義というモラルが、今では通用しなくなっている。私自身でさえも、ただ殿様のため、味方のために何のおそれもなく命を投げ出せたという男を書く気にはなれない。  私が「強右衛門」を書こうと思ったのは、戦国時代に生きた男たちの姿を出来るかぎり深くさぐってみようと考え、そこから、なぜ、強右衛門があのような見事なふるまいを行ったのかを考えてみたいと思ったからだ。  この仕事はむずかしかった。この稿が出るころには雑誌に発表されていると思うのだが、よみ返すのがこわい気がしている。  私は先ず、長篠城を見に出かけた。浜松から車で山を三つも四つも越えた三河の山岳地帯に、この城の跡がある。地形は当時をほうふつとさせるままに姿をとどめていた。  ともかく、書こうとする舞台は必ず見ておくほうがよいのだ。  私も、このとき、長篠城跡に立ったとたん、「テーマやストーリイに苦しんでいるよりも、先ず強右衛門の生活からしらべて行こう」という気持に、はじめてなった。  この気持になれなかったら、私は「強右衛門」を放り出して別の素材で書くことにしたろう。  それで、私は、強右衛門が仕えていた奥平家が領していた三河の山岳地帯についての地理や郷土誌を出来るかぎりあつめ、読んだ。  強右衛門についての、くわしい伝記はあまりない。どれも同じようなものである。  そこで、当時の豪族やその家来が、戦国の世というものに対してどういう考え方、生き方をしていたものかという勉強を、もう一度、やり直したのである。   現代にアピィルする主題は……  武田へつくか、織田へつくか——豪族たちは、大勢力の動きに沿って絶えず身を処して行かねばならない。天下をとった大名の下についていなくては身が危くなるし、出世も出来ないからだ。強右衛門は、こうした小勢力の、そのまた下の家来なのである。  戦争に出ないときは、妻や下男と共に汗まみれとなって田畑をたがやし、いざ戦となると、鍬《くわ》をすてて槍をつかみ、戦場へ出て行くという生活だ。こういう生活を送っている男たちの家庭生活は、どんなものであったろうか……。また、こういう男たちの妻として生きている女たちは、どんな考え方をしていたものだろうか……。  この小説は、そこから出発することが出来た。  すると——昔も今も、人間のあり方というものが、それほど違っていないことに気がつくのだ。  と同時に——一つだけ大へんに違っていることも出てくる。  それは「死」に対する考え方である。  昔の人々は「死」を考えぬときがなかった。いつでも「死」を考えている。それほど、世の中はすさまじい圧力をもって、武士といわず百姓といわず商人といわず、あらゆる人間たちの頭上を押えつけていたのである。  現代でもしかり。人間ほど確実に「死」へ向って進んでいるものはいない。  しかし、現代は「死」をおそれ「生」を讃美する時代である。そして「死」があればこそ「生」があるのだということを忘れてしまっている時代なのである。戦国の世の人たちは天下統一の平和をめざし、絶えず「死」と「生」の両方を見つめて生きてきている。ここのところが大分違うのである。そこにテーマが生れてくる。  ここまでまとまると、あとは地誌や戦史などをよみあさり、実際にペンをとってしまえば自然に書けて行くものなのである。  私の場合、原稿紙に向うときは、仕事の半分は終ってしまったと云ってよい。書けるところまで行けば、半分は出来てしまったことになる。  それにしても、先人の残しておいてくれた立派な書物には、つくづく感謝の心が起きざるをえない。  たとえば、故吉田東伍博士の著書〔大日本地名辞書〕のごときは、手垢のつくまで使用させてもらっているが、ページをひらくたびに、この念の入った、ほとんど半生をかけて成しとげられた業績の恩恵を身にしみて感ぜずにはいられないのだ。長篠のことが知りたければ三河・長篠の項をひらく。そこには長篠の地形と歴史が簡潔に語られ、その場所が現在のどこに当っているか、それもわかる。これを土台にして実地調査なり次の段階の調べなりに進むわけだ。種々の郷土史もしかり、太田亮博士の〔姓氏家系大辞典〕なぞも、手離すことが出来ない私どもの宝庫である。  前にのべた時代小説の基本というものを実際にうつして仕事をするほかに、現代人にアピィルするテーマを探し出すことが、もっとも私たちにとっては大変なことだ。   学者の仕事と小説家の仕事  今回は〔歴史〕と〔小説〕との関係について、のべてみたいと思う。  昨年はことに、この問題がジャーナリズムにとりあげられ、著名な批評家や作家の論争が、にぎやかにおこなわれたようである。  このことについて、私どももいろいろと人から訊《き》かれるのだが、実にめんどうくさいことと思う。 〔歴史〕と〔小説〕とは、別個のものである——といい切ってしまうこともどうかと考えられるが、小説家がやたらに「昔はそうではなかった。誰々の小説は歴史を無視している」  とか、 「将軍や大名というものは、そんなものではない」 「いや、そういうものだ」  などとやり合っているのを見ると、まったく情けなくなる。  作家にとっての〔歴史〕というものは個性の中にあるものだ。われわれは、何百年も前の昔に生きていたわけではない。  資料や史書は、もちろん大切な素材ではあるが、その中から〔人間性〕までも断定してしまってはいけない。  人間という生きものは〔遺書〕や〔日記〕の中にまで平然と(嘘)をかくことが出来る動物なのである。  これは、死ぬ間ぎわに書きのこしたものだから〔真実〕だときめてかかるあさはかなまねは、おそらく、いま第一線でものを書いている小説家にはあるまいと思う。  それにもかかわらず〔歴史だ歴史だ〕とさわぎ出すのはどういうつもりなのか。  おそらく〔歴史〕というものをふりまわせば、高級な仕事をしているという満足が得られるからなのであろう。  たとえば、いま評判になっている〔徳川家康〕でも、Aが書けばAの家康、Bが書けばBの家康になる。  それでよいのである。  しかるに、 「これこれの人物は、こうであった」  と、小説家たるものが断定を下してしまうことのおろかさよ、である。  小説家は、おもしろい小説を書けばよい。  生き生きとした人間が躍動している小説を書けばよい。  小説家が学者になったとき、その人の小説は、完全につまらなくなる。  そうなったら、その人は小説をかくのをやめ、学者になってしまえばよいのである。  しかし、こういうことがある。  昨年、私はひどい間違いをやってしまった。  歴史上著名な人物の、叔父と甥の関係を兄弟の関係にして書いてしまったのだ。  これは、それを知りつつ、小説の構成の中でいつの間にか間違えてしまうようになり、執筆に夢中となるうち、すっかり忘れてしまったのだ。  これは、もちろんいけない。恥ずべきことである。私は冷汗をかいたものだ。  兄弟、親子の関係、ことにそれが明確なものであるのをまちがえたということは作家として、実にいけないことであった。  以来、私は心をひきしめている。  ところで……。  史書にあらわれた親子、兄弟の関係でさえ、場合によっては、本当にそれが確かなのかどうか、はっきりとは断定出来ないと私は思ってもいるのだ。  現代の、これだけ社会の様相が諸人の目の中へはっきりと見える時代でも、まことにふしぎな、奇々怪々な出来事がいくつもある。  まして、昔のころの親子や兄弟の関係なぞ、どんなからくりがあったか知れたものではないのだ。  だが、たとえば、そういうところに作品のモチーフをつかまえるとき、作家は万人の読者を説得するだけの技術をもっていなくてはならぬ。  最近出たN氏の「三百年のヴェール」という時代ミステリイ風の小説は、徳川家康の出生を、ことごとく従来の常識から引っくり返して見せたものだが、そのために駆使された〔技術〕は、まことに完璧《かんぺき》なものであったといえよう。   人間が歴史  とにかく、作家というものは評論や批判を公的な場でやらぬ方がよいと私などは思っている。それをやると、やるたびに身内にたくわえた〔力〕がぬけてしまうような気がするからだ。  私の場合、歴史は人間によって成り立っている。  人間というものは何千年も昔から本質的にそれほど進歩をしていないのだ。  進歩という意味がどういうものか、よくわからぬが、つまり、あまり変ってはいないのである。  つまり、その見方をふまえておいて、私は資料や史書をよむ。  そこに私の〔テーマ〕が生れてくる。  私の見方で歴史がつかめ、人物がつかめるというわけだ。  一昨年、私は「オール讀物」に「色(いろ)」という小説を書いた。  この小説の主人公は、新選組の鬼といわれた土方歳三である。  新選組のテーマは、いままでに何人かの作家によってあつかわれ、それほど新鮮な素材ではないのだし、それまでは手を出す気はあまりなかった。  ところが、偶然に、私は〔土方歳三が京都で活躍をしていたころ、経師《きようじ》屋の未亡人がその恋人であった〕ということを知った。  たったこれだけのことで、いままで私がもっていた土方歳三のイメージが急にふくらんできたのである。  これが別の人物であったら、恋女の一人や二人いたからと云って興味もわくまいし、別の作家であったら土方に恋女がいたときいても興味はわかなかったろう。  ということは、小説を書くという作業が、それほど個性に左右されるということなのである。  この小説「色」は評判もよく、映画にもなって、まずまずねらいが成功をしたと思っている。  いい作品だったというのではない。つまり、それだけの簡単な素材が、読者の眼にふれても不自然でなくふくらませることが出来た、ということなのである。  その〔作業〕が小説家の仕事である。  そして、私はこの機会にあらためて、〔新選組〕関係の資料をあさり、勉強もした。もちろん京都へも何度か出かけた。  つまらぬことを書くが、こうした材料へかけた費用は、雑誌社からもらう原稿料の三倍にもなったのである。  ところが、この努力をしたおかげで少くとも、私は新選組関係の新しい材料を三つほどつかむことが出来た。  そのうち一つを去年から某誌に連載しつつある。  このように、資料へ金をかけることは本当に大切なことであって、これをやらぬと時代小説家の泉は枯れてしまう。時代小説家というものは少くとも原稿料の半分は材料にかけなくてはならぬ。  それも自分の個性に合った資料へかけることだ。  近頃は〔歴史ブーム〕だそうである。  けっこうなことだと思う。  歴史小説と銘うった小説もブームだという。  これもけっこうなことだ。  どれでもよい、片っぱしから好きなものをよんでいただきたい。  そうすると読者の時代小説への興味も一段と増すことであろうし、私どもも仕事にはげみが出てくるというものだ。  だが、由来、時代小説は女の読者に好まれぬということになっている。  女性の本質と興味は〔現在〕そのものにあるからであろう。 [#地付き](蛇ノ目エコー・昭和三十八年)  [#改ページ]   必要なのは年期  テレビの魅力は、やはりドキュメントなものにあるようだ。  野球と相撲とが、なまなましい迫力をもって家庭の茶の間に再現され、または中継されることは、現代人としての幸福をしみじみと感じさせてくれる。  それにくらべると、映画や芝居の中継は、まだまだなまぬるく、なんとなくものたりない。  テレビ・ドラマにしても単発のそれは、やはり〈やっつけ仕事〉が多くて、それがまた歴然と画面にあらわれてくることは、おそろしいほどのものがある。  私も年に何度かはテレビのドラマを書くが、うまくいったためしがない。  ことに時代物のそれは、テレビ局側の演出、衣装、小道具、かつらなど、すべてのスタッフをふくめて演劇界のそれにはおよぶべくもない。  そこへいくと、NHKの「事件記者」や、その他の連続ドラマは、やはり見ごたえがある。  それは、俳優にしても、脚本にしても、演出にしても一つのドラマに〈年期〉をいれているのと同じことになるからであろう。  だから、そのうちのどれかが力の弱いものであっても、別のどれかがカバーをして、最後まで見させてくれる。いまのテレビ界に必要なものは〈年期〉のはいったチームワークであろう。  テレビ界のスケジュールは、まことにあわただしい。  じゅうぶんに企画を練ったり、ケイコをつんだり、勉強をしたりするヒマもないのであろう。  もちろん中には、すぐれた演出家もいるが、総じて、テレビの演出家は俳優の演技をひき出すすべを知らない。  ことに、時代物のそれは、まことにひどい。大名の家来が、自藩の犯人をつかまえる場合に、幕府の役人のような姿をして出て来るし、大名の家老が大刀を差したまま畳にすわったりする。  演出家の多くは、カメラワークとか、前衛的な音響効果とか、そんなものにおぼれてしまって、そんなことにうき身をやつすことが〈新しい〉のだと思っているようだ。  それもムリはないと思う。  テレビ局の人々は、あまりにも忙しすぎる。その忙しさが見る方にもつたわってしまうから、テレビ見物に、いったんおぼれると、日常生活が、ひどくあわただしいものになってくる。一時は、絶えずテレビを見ていた私も、このごろは、ほとんど見ない。  自分の生活や仕事にひどい影響がもたらされるからだ。そうなっては、こっちが飯の食いあげになってしまう。 [#地付き](スクラップブック・新聞・昭和三十九年・テレビラジオ) [#改ページ]   なまけもの  友人たちは、 「日本一の無精ものだ」  と、私のことを大げさにいうが、とんでもない。  若いころ、少年のころの方が四十をこえた現在より、もっともっと無精ものであった。  小学生のころから、一日中、寝ころんで、ぼんやりしていていささかも飽《あ》きることを知らない(むろん現在でもだ)ので、亡くなった祖母が、よく、「日本一のなまけものだ」、と叱った。  私には亡父のなまけものの血と、はたらきものの母の血がハッキリと同居をしている。  それはさておき、この稿を記するにあたり、日記を繰《く》ってしらべてみたら、昨年度は種々のパーティーへ出席すること平均月二回ほどになっている。これにはおどろいた。これはまさに新記録であって、それでもまだ案内をもらったパーティーのほとんどに欠席をしているつもりでいたのだ。  原因も、どうやらわかるような気がする。  このごろ、だいぶ肥ってきた。昨年のズボンをみんな直したほどである。  これは運動不足と年齢の関係によるもので、五年も前にはデパートの地下から屋上まで一気に駈《か》け上って息もみだれなかったのに、ちかごろは仕事の調べで小さな山城《やまじろ》の跡へのぼるのさえ、ひどく息切れがする。  しかし、出無精《でぶしよう》は一向になおらない。  私が、昨年パーティーの案内をもらい、なるべく旧知の人が出て来そうなのをえらんで出席するように心がけていたらしいのも、こうしたキッカケがあれば、ついでに神田へ出て古書さがしをやったり、映画を見たりやたらに歩きまわって、見る間に変貌し、しつつある東京の風景にびっくりしたりして、たっぷり汗をかいて足の鍛錬をすることができるという潜在意識があるからにちがいない。 [#地付き](文芸朝日・昭和四十年二月号・パーティー談義) [#改ページ]   優美な戦陣の詩情——柏木兎《かしわにみみずく》螺鈿鞍《らでんのくら》——  この〔軍陣鞍〕は、平安時代後期の作だという。いまから八百年ほど前のそのころ、日本は、いわゆる摂関《せつかん》政治から院政の世を経て、新しい時代を迎えようとしていた。それまでかろうじて残存していた古代国家のおもかげは地方勢力(武士団)の抬頭《たいとう》とともにくずれかかり、朝廷や貴族たちは、武士を押えるに武士の力を借りねばならなかったのである。  この反覆《はんぷく》作用は、いよいよ武士たちの力を強大ならしめた。 〔平家物語〕をはじめとする源平の軍記にただよう〔戦陣の詩情〕は、現代人が見ると夢のようにしか考えられぬことだが、当時の武器・武具類の優美さは、この軍陣鞍一つを見てもわかる。  武人や武具が、もっとも美しかった時代なのである。  この鞍にほどこされた螺鈿細工の柏の葉と木兎《みみずく》の図柄は巧緻《こうち》・繊細をきわめたもので、ことに、丹念にぬりこめられた漆の微妙な複雑な色合の厚味は、工芸に不案内なぼくのようなものをも瞠目《どうもく》させずにはおかないし、土くさい武士たちの貴族文化・宮廷文化への強烈な憧憬がくみとれるような気がする。  この憧憬が平氏をほろぼしたわけだが……それにしても、この美しい鞍にまたがった武将たちが〔何々|縅《おどし》〕などという絢爛《けんらん》たる鎧《よろい》を身につけ、名乗りをかけ合って戦ったそのころの戦場のありさまは、いったい、どのようなものであったろうか。  武具や武器が、もっとドライで奔放な意匠《いしよう》に包まれてきた四百年後の元亀・天正の戦国時代のそれとは、まったくおもむきを異にしていたに違いない。  この軍陣鞍の前には、戦場における〔感傷〕も、ゆるされてよいだろう。 [#地付き](サンデー毎日・昭和四十年四月二十五日号・国宝) [#改ページ]   痔用体操   知人にきいた体操の要領  私が、私の痔を癒《なお》した体操について原稿を依頼されたのは、これで五度目か六度目になる。  何度も同じことを書くので、もう飽きてしまったが、それでも依頼があればこれからも何度でも書く。なぜなら、この治療法は一円の金も必要とせず、しかも一日のうち三十分足らずの時間を割《さ》けば、かなりの効果があらわれるのだし、知っておいても為にならぬことはあるまいからだ。  ただし、一つ、必要なことは、この体操をまる一年間はつづけるという〔辛抱〕なのである。  この体操が、他人の「痔病」に効果があるかどうか……少なくとも、私と別の数人の人々には効果があったことを書きそえておこう。  十年も前から、私の痔は悪化しつつあった。  あるとき、ある会合で痛みに顔をしかめていたら、知人のS氏が、 「ちょっと、この体操をやってごらんなさい」  と、廊下へ連れ出し、教えてくれた。  次に、その要領を記す。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一、両足を投げ出しすわる。 二、両ヒジをタタミにつけ、上体をささえる。しかるのちに両足をまっすぐにのばし、高く上げる。上体をふらふらさせてはいけない。 三、上げた両足をぴいんとひらく。 四、ひらいたままの足の片方の指先(とくに親指)に力をこめ、片方の足の裏、つまり|土ふまず《ヽヽヽヽ》の箇所を強く叩く。このとき両足を曲げず、左右から中央へもってきて叩き合わせることがコツである。この叩きを左右交互にくり返す。ひらいては叩き、叩いてはまた両足をのばしたままひらく。しまいには両足の土ふまずが赤く腫《は》れ上がってしまう。 五、はじめは疲れるし、とてもやりにくいが、一日に少なくとも百回まではやり、少しずつ回数をふやす。なれると三、四百回は苦もなくできる。 六、これを一年間毎日、たゆみなくつづける。 [#ここで字下げ終わり]   途中でやめてはダメ 「やってごらんなさい。一年やったら、きっと癒《なお》りますよ」  と、S氏はいい、その場で、体操の要領を教えてくれた。  やって見た。 (おや……?)  すーっと激痛が消えてしまったではないか。 「ね。らくになったでしょう」 「らくです」 「つづけてごらんなさい、一年間——」 「やります」  早速、その夜から始めたが、一年間つづけるということは、実に至難なことで、十日もやると、二日休み、また十日やって、今度は五日休む。そのうち、季節が暖かくなると、痛みもゆるむし、ついつい忘れてしまった。  そして、また冬が来た。  またも激痛である。  また始める。暖かくなると、またやめてしまう。  これでは癒るばかりか、少しずつ悪化するばかりなのだ。  痔病というのは実に厄介《やつかい》なもので、胃腸には異常がないから、食べる。  食べれば、自然、出ることになる。  その出るたびに苦痛を味わわねばならないのだ。  この体操は、何でも肛門周辺の|ウッ血《ヽヽヽ》を除き、筋肉をひきしめるらしい。  だから途中でやめてはダメなのである。  肛門の筋肉がかたまり、傷つき腫《は》れ上がっている箇所が尋常《じんじよう》になるまでは、つづけなくてはならぬ。   ついに全快した  さて……。  体操を怠けていた私は——たしか、昭和三十三年の晩秋のころ、便所にいって出血し、そのまま昏倒《こんとう》した。  何しろ、知らぬ間に出血していて気がついたときには、もう気が遠くなっていた。  家内は、しきりに手術をすすめるし、そのつもりになったのだが、急に、一月のM座の芝居を書くことにきまって、その材料をあつめに鹿児島へ発ったのが、十二月である。  九州の冬のあたたかさに、痛みが軽減した。  すると、もう手術をする気がなくなり、帰京してからも痛みをこらえ仕事をしたのだが、この芝居が上演され、テレビ……のときに解説をすることになっていたその当日、またひどい出血で倒れた。  ここで、 (どうあっても、あの体操を一年はつづけよう)  と、私は決心をしたのである。  その年は真夏のさかりにも汗をかきながら、毎日つづけた。  この体操は痔ばかりではなく、下半身の筋肉をひきしめるし、胃腸の工合もよくなる。 「よくつづくわね」  と、家内もあきれたようだ。  冬が来た。  痛まない。痛まないままに、翌年となった。  一年目の二月初旬を迎えたが、もう習慣となってしまっているので、そのまま、春が来るまでつづけて、やめた。  以来、七年もたつ。  その間、一度も痛まぬし、体操もしてはいない。  去年から今年にかけて、寒い季節に何度も薄着で雪国へ出かけたが、全く痛まなかった。   手術がいやならば……  私の痔病は一度も医者にみせたことはないので、どのような症状であったかは不明である。  しかし、出血と激痛に苦しんだ事実は冬が来るたびに、思い出される。  病院へ行くことがいちばんよいのだが、何しろ患部が患部だし、ことに女性が、この病気になると診察をうけにくいらしい。  どうしても手術が厭《いや》ならば、私のようにやってみたらどうだろう——と、すすめてその気になり、いまは全く痛まぬという友人も数人いる。  なお、もう一つ〔尾テイ骨体操〕といって、これも痔を治す体操があるそうだ。  これは、あぐらをかいて両足を水平にひらき、足のつまさきを両手につかみ、上体を中心にして左に四十五度、右に四十五度とからだをかたむけることをくり返すのだという。  この体操よりも、私がやった方がやりやすい。  どちらにしても、下半身の血行をよくすることは〔痔〕に悪いことではない。  とにかく、私は体操によって今のところは再発をまぬがれていることはたしかだ。 [#地付き](暮しと健康・昭和四十年五月号)  [#改ページ]   師のにおい  さきごろ、久しぶりに長谷川伸先生の未亡人をおたずねしたとき、 「書庫の整理も、だいぶ出来たのよ。ごらんになる?」  未亡人が、そういって下すった。私は、三年ぶりに亡き師の書庫へはいった。私が十八年前に初めて先生をおたずねし、出入りをゆるされたときから、この蔵書の借出帳をつくり、私は勝手気ままに書物を借り出したものだ。いま考えると冷や汗ものの、がむしゃらな、若い私であったが、この借出帳のページが埋まるのがおそくなると、 「このごろ、勉強しないのだねえ」と先生にいわれた。  文字通りの、われら時代小説を書く者にとっては「万巻の書」である。  あるとき、先生が、 「全部は読めないよ。目次だけでも見ておくことだね」といって下すって、それからは、お宅へうかがえば必ず書庫へはいった。目次をよまぬものは背文字だけでも、全部の蔵書に目を通したが、それだけで十五年もかかった。だが、そのおかげで自分の、ささやかな蔵書をととのえるために、私はどれほど大きな益を得たことだろう。  先生の書庫は、先生独自の感覚によって書物がととのえられていた。何年も、この書庫の本の配列を見ていると、先生の強烈な個性が感じられたものだ。  それがいま、若い女性の専門的な分類によって、ととのえられつつある。 「これは……よくわかるようになりました。だれが見ても、本がさがせます」  と、私は未亡人にいった。  地誌の分類だけ見ても、それがはっきりわかった。  未亡人は、整理をしている若い女性に、 「よかったわね」  と、うれしげに声をかけられた。私も、これから、この書庫を利用する人々のためにうれしかったが、また一面、妙にさびしくもあった。  がらりと配列が変わった書庫から、先生の匂いが消えていたからである。  むろん、これは、私一人の感傷にすぎなかったが……。 [#地付き](サンケイ新聞・昭和四十年六月二十一日・読書) [#改ページ]   「七卿西遷小史」中野泰雄著  文久三年(一八六三)の京都政変による「七卿落ち」を中心にした明治維新の展望をこころみたこの一冊を、はじめは、それほどの興趣も起こらず読みすすんだが、そのうちに、著者の丹念な考察と史料のほどよい選択による「意図」もよくのみこめて、かなりの満足感をおぼえた。  戦後に発表された維新史のほとんどは、いわゆる「進歩的史学」によって裏づけられ、白でなければ黒、黒でなければ白という振幅のせまい維新観がまかり通っていただけに、むしろ素朴に、初心に「維新史」へ取り組んだ著者の筆致には血が通《かよ》っており、それがたのしかった。  たとえば「……坂本竜馬や中岡慎太郎は、伊藤博文、山県|有朋《ありとも》などより、人間的にも政治的手腕においても卓越していたように思われる」などという文章をよむと、それは当然のことでありながら、あまりにも素朴すぎた表現で食い足りぬという人もいよう。だが、坂本や中岡をピックアップした後半は、にわかに活気をおび、かざり気のない著者の目が正しく急所をついてくる。  徳川幕府を論ずる態度も、おおむね公正であって、また三条|実美《さねとみ》という公卿《くげ》が、当時の宮廷官僚の中にあって、かなり高度な「純粋さ」をもっていたこともよくわかるし、まだ「実美公記」を読んでいない私にはうるところが多かった。  へたくそな文章でつづられた「維新史」が多い中で、この小史は、まことに平明な文章で読みやすい。 [#地付き](スクラップブック・新聞・昭和四十年)  [#改ページ]   旅のメモから  暮から正月にかけて、羽越《うえつ》から京都、そして信州と、つづけざまに旅をした。  それで、寒いときに寒い国へ行けるという自信が、だいぶついたようだ。  それはさておき……。  日本はいま、非常な変貌をとげようとしていることが、どこを旅して見ても、つくづくと感じられる。  大阪という都会が、いまから六、七年前とは全く異った相貌《そうぼう》を呈《てい》してきているうえ、まるで追いすがるようにして、京都が変りつつある。  古都の古都らしい家並や雰囲気が、だんだんにイカレてしまった、などというような表現ではいいつくせぬ、もっと別のエネルギッシュな「時代」の、すさまじい流れが、京を大阪を、神戸から中国一帯を、そして雪ふかい北国の町を変えつつある。  日本が、高度工業国家として驀進《ばくしん》しつつあるその息吹きは厭《いや》でも日本全土に波及しつつある。  不況におののき、日本経済の見通しに血まなこになっている現今の世相とは別に、日本の技術革命は猛進しつづけている。  歴史の上でいう(安土桃山)時代、または(元禄文化)時代、そして、明治維新後の近代国家として生まれ変ったころにも劣らぬ変貌というか、脱皮というか……そうしたものが、いままでは眠りこけていたような雪国にも看取されつつある。  これが成功するや否や、それは、わからない。  日本の、いや世界の経済の見通しなどというものすら、横綱同士の取組の予想と同じような、たよりない確率の上に立っているのと同じことだからだ。  それでいて、私のような〔時代小説〕を書いているものから見ると、人間の〔本質〕は何百年も昔から少しも変っていない。  だが〔古びたるよきものを〕見るなら、今のうちに、ということである。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十年)  [#改ページ]   私の酒  さて、弱った。  恋を通じての酒、甘い酒、苦い酒について書けといわれても、私の場合、酒と女とは、とてもむすびつかない。  もともと十代からの私の相手になってくれた女《ひと》たちは、みんな〔くろうとさん〕ばかりだし、いま四十をこえて若いころ知り合った子を思いうかべて見ると、吉原だの名古屋の中村だの飛騨の高山だの岐阜だの、諸方のくるわの女たちばかりで……とにかく、いずれも私より年上のひとばかりである。  そのころの女たちを〔実説〕で書くのは、まだ私の年齢では見っともないし、あまり気もすすまない。  だが、私の小説の中には、その女たちとの関係が知らぬ間に出ており、年月をおいて読み返したとき、ぎょっとなることがある。  私の酒の飲み方も、こうした女たちから教えられたのだ。  どういう風に教えられたかというと、 「お酒というものはねえ、うれしいときにのむもので、悲しいときや苦しいときにのむものじゃァないのよ」  と、いうことであった。これは彼女たちの酒とは正反対のことなのだが、そんな教え方をされたのも、私が年少のためだったのだろう。  そのとき、こうした〔ねえさん〕たちの言葉に、私が何といったかおぼえてはいないが、いまの私の酒は事実、その通りのものになってしまっている。  戦後、はじめて、めんどうくさい恋愛のごときものも二、三したが、このときも苦い酒をのんだおぼえはない。  のむほどに陽気になる酒だし、それはひとりきりで充分にもつ。  好きな肴《さかな》さえあれば、ひとりきりで、「ああ、こりゃこりゃ……」になってしまうし、むしろ一人の方が気もおけず、たのしくのめる。  いまは毎夕二合。それをのんで、ちょっと寝て仕事。仕事が終ってウイスキーを少し……それで、おしまいである。  十日に一度ほどは、気の合った飲み友達と外でのむが、相手によっては七、八合のんでも他人にめいわくをかけることなく、ごきげんで、ちゃんと帰る。  旅が好きだし、よく出かけるので、だから私の酒は女よりも風景、旅情とむすびついているのだ。  冬枯れの奈良の茶店で、ひどく辛い玉子汁で熱かんをのんだときの情景や、雨にふられて予定をとりやめ、朝からのんびりとのんだ越後・岩室の宿のことや、京都・鳥居本の平野屋の縁台で、顔まで染まりそうな青葉につつまれ、たらふく食った鮎の味や、そのとき、のみすぎて少し足もとが危くなり、あかるい初夏の陽ざしの中を、ふらふらと念仏寺の前から嵯峨野へ出たときの夢を見てでもいるような気持など……旅と酒の話ならいくらでもあるが、こんなひとりのたのしみを、そのまま書いたところで読む方はつまらぬことだろう。  朝からビールをやるのも旅へ出たときにきめているので、これもたのしみなのである。  そうだ、平野屋でのみすぎたときは、帰京の列車の中で、まだ食い足りずに名古屋で駅弁と酒を買いに出て、列車のドアに指をはさまれ血まみれになったことをいま思い出した。  とにかく私の酒は女ッ気のない酒で、他人から見ると、あまりおもしろくもあるまい。  寝酒をやりながら書いているので、もうめんどうになりました。  ま、こんなところで、ごかんべんを——。 [#地付き](酒・昭和四十一年一月号)  [#改ページ]   古都との対話   いまのうちだ  ずっと以前、芝居の仕事をしていたころは、京阪に滞在して脚本を書いたり、けいこをしたりすることが多かった。  そのころは、まだ京都の表面をなでていただけのことで、今までに何十回おとずれたか知れぬ京都が、ぼくにとって、切っても切れぬ町になったのは時代小説を書くようになってからだろう。  ひとくちに「古都」といっても、日本の歴史そのものが風土と化したような町は、京をおいてほかにない。  戦国のころといわず、幕末といわず、自分が書く小説の背景にすべきときは、いまでもかならず足をはこぶ。  六角堂境内の茶店で売る「へそ石餅」や、五条・野村の「からしナス」や東山の松林にある尼僧の一庵室や、京で見るもの、聞くもの、食べるものが、小説の中に出てくる人物の血肉となってしまうのは、そこに、時代小説を書くぼくが「むかし」を見ることができるからだろう。  いまのところ通えども通えども、くみ足りぬおもいがしているが、いわゆる近代化による都市の変ぼうについては、この意味で絶望している。 「いまのうちだ、いまのうちだ」と思いつつ、つとめて京都へ出かけるより、ぼくにできることは何もない。  数年前まで、東山のすその小さな茶店で、シンコをねった小さな餅へ白砂糖をかけたものを出してくれ、これで茶をのませるだけの店だったのだが、むろん今は消えた。  この「しんこ餅」がなつかしくなると、ぼくは奥嵯峨・鳥居本の「平野屋」へ出かけて行く。赤いモウセンをしいた縁台にかけて「しんこ餅」で茶をのむうち、あの大ぶりな徳利に酒が来、アユやコイがはこばれてくる。たらふくにのんで食べて、新緑のころならば、からだまで染まりそうな木立や野をぬけ、ふらふらと天竜寺のあたりまで歩く。  この酔いごこちは、われをわすれさせてくれる。自分が百年も二百年も前に生きていて酔っているのだとしか思えなくなるのだ。  近ごろは、こうした環境とタイミングを見きわめ、清滝や周山街道一帯、それに洛西の大原野あたりをうろつくのが習慣になっていて、ときには思いがけぬ味と事態にめぐまれることがある。  それもこれも�今のうち�である。間もなく「へそ石餅」も「しんこ餅」も消えてしまうだろう。  都と、それをかこむ風景と、歴史と伝統の厚味とふかさがいとなんでいる町の生活を、もちこたえつづける人びと——そういうものが「古都」の存在を意義あらしめるのはいうをまたぬが、それらの人びとの心が変わってしまっては、どうしようもあるまい。近年、京の職人は「職人」とよばれることをきらいはじめたという。  芸術家とよばないといけないのだそうだが「ほんとうなのだろうか……」などと、ここまで書いているうち、三条小橋の「松ずし」の味が、ふっと舌にのぼってきて、ツバがたまりはじめた。 [#地付き](京都新聞・昭和四十一年四月二十三日)  [#改ページ]   ジ用体操一、二ッ、三  旧臘《きゆうろう》、一年ぶりにY温泉S屋へ泊った。中国すじから京阪を経て北陸へ出たこの日は、風まじりの雪になり、夜に入ってから宿へついたぼくが温泉へつかるよりも先に熱い酒を注文すると、やがて、 「アレ、旦さん、ようこそ」  女中頭《あんにやま》のおせいさんが、酒をもってあらわれた。  すでに五十をこえた筈《はず》だが、越前生れの肌の良さと、子を生まぬ豊満な肉体は彼女を十も若く見せている。十年前にはじめて会ったときから少しも変らぬおせいさんなのだが、一昨年の暮にS屋へ泊ったときはひどく窶《やつ》れており、顔中が青ぐろく浮腫《むく》んでいて、実にもう機嫌が悪かった。それまでは冬にS屋へ泊ったことのないぼくだったが、 『これは御亭主とうまく行かなくなったのではないか……』  と、推察をしたものだ。また、それは事実だったのだが……そうなりかけた原因は別のものだった。   痔のせいで夫婦不仲に  とにかく、一年ぶりに見るなつかしい�あんにゃま�が晴れ晴れと双眸《め》をかがやかせ、みっしりと肉のみちた躰をゆさぶるようにして、いそいそと熱燗《あつかん》の酌をしてくれるにまかせつつ、ぼくはいった。 「癒《なお》ったね、おせいさん」 「ええ、もうもう、旦さんには何でも御馳走してあげたいくらい。手ぐすねひいて待っていたんやげ」  というわけで、この夜は宿で出す料理のほかに、彼女が手づくりの小イワシのすしやタラのチリ鍋や、柚子《ゆず》入りの沢庵漬《たくあんづけ》やらが出た。  この宿に二十年もつとめているおせいさんの家はすぐ近くで、いったん、ぼくへのサーヴィスを部下にまかせておき、帰宅して、すばやく、これだけのものをととのえてくれたのである。  翌々日、S屋を発つまで、ぼくは、おせいさんの超弩級《ちようどきゆう》のサーヴィスをうけた上、福井名産・白羽二重《しろはぶたえ》を長襦袢《ながじゆばん》用にと、わざわざ錆浅葱《さびあさぎ》に染めてくれたものまで頂戴《ちようだい》してしまった。  なにゆえにこそ、彼女が、このような感謝をぼくにささげたのか——、では、語ろう。つまらぬはなしかも知れないが……。  一昨年の暮の彼女の心身の憔悴《しようすい》は、ひとえに痔の病いからだった。 「ここ三年もの間、寒くなると、亭主が女ぐるいをはじめるのですよ」  と、はじめてきいた。  御亭主は別の宿の番頭さんで河辺芳太郎という。このときは大喧嘩になり、芳さんは女房を捨ててK温泉にいる女のところへ逃げてしまっていたのだ。 「無理はないのですけど、でも、こんなことがつづいたら、もう何も彼もおしまいですものねえ」 「なるほど……」  五年前ごろから悪くなりはじめた痔病が、北陸の冬を迎えると激発する。この痛みをこらえ、女中頭として責任を果すべく働くだけが精一杯のところで、とても御亭主にまでは手がまわらぬ、いや、あの箇処のあの激痛を背負いこんでいたら、男だってとてもその、あのことなんか出来るものではないのだ。  しかし、手術は死んでもいやだ、という彼女だ。ぼくは一度、S屋の浴場でおせいさんのふくよかな、白い臀部の美しさにみとれたことがある。この逸品へメスを入れることは、ぼくも反対だった。 「よし。じゃア教えるよ。やってごらん、痔が癒《なお》る、かも知れない体操だ。ぼくは、この体操で癒した。ぼくが教えて癒ったものも数人いるがね」 「アレ、長崎のように暖い土地で暮していなさっても、あの病気おこるのですか?」 「痔と土地柄とは関係ないよ」  ちなみにいうと、ぼく、このS屋では長崎の鼈甲《べつこう》屋・山崎貞次郎ということになっている。 「お願いします、教えて下さい、たのみますわ」  おせいさんは必死の面もちとなり、夜ふけてから『もんぺ』をはいて部屋へ来た。   わが惨たる痔伝  この痔用体操は、次のごとくである。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 一 両足を投げ出し、すわる。 二 両ヒジをタタミにつけ、上体をささえ、両足をまっすぐにのばし、高く上げる。上体をふらふらさせてはいけない。 三 上げた両足を、ぴいんとひらく。 四 ひらいたままの足の片方の指先(とくに親指)に力をこめ、片方の足の土フマズを強く叩《たた》く。このとき両足を曲げずに、左右から中央へもって来て叩き合せることがコツである。   この叩きを左右交互にくり返す。ひらいては叩き、叩いてはまた両足をのばしたまま、ひらく。しまいには両足の土フマズが赤くはれあがってくる。 五 はじめは疲れてやりにくいが、一日に百回まではやり、少しずつ回数をふやす。馴れると三百回は苦もなく出来る。 六 これを一年間、たゆみなく、一日も休まずにつづける。 [#ここで字下げ終わり]  この最後の一項が、もっともむずかしい。  たとえばだ、その夜のおせいさんがぼくの教えるままに顔をしかめ、あえぎつつ汗びっしょりになって両足を叩き合せること約三十回。彼女は、ふしぎそうに、 「アレ、痛みがかるくなりましたよ」  といった。  このように効くから、痛みが消えると、ついやめてしまう。すると、せっかくに引きしまりかけた肛門周辺の筋肉がまたゆるみ、良き状態に発達しかけて血行もよくなりかけたやつが、また元へ戻《もど》ってしまうのだ。  この体操をぼくが知ってから、数年間もあの激痛に耐えなければならなかったのも、暖くなり、体操が効いて痛みが消えると、ついつい中断してしまったからで、この場合、また酒をのみすぎたり、冬になったりすると元のままの苦しみを味わうことになる。  ぼくが一年間やむことなくつづけたキッカケは、当時、新国劇で上演していた自分の芝居のテレビ中継での解説(当時はビデオテープがなく、幕間のツナギに局側は苦心をしたものだ)をする筈《はず》になっていた当日の朝、便所の中で出血のため、失神しかけ、ようやく耐えて階段を上りきったところ、また貧血をおこしてころがり落ち、母や家内の失笑を買ったからである。 「落ちた、落ちた」  と、おふくろは歓声をあげ、家内は、 「タマにはいいわよ、お母さん」  と、同調した。  我家では暴慢な主人へ対抗することによって姑《しゆうとめ》と嫁が仲良く協力している。おかげで女二人の間は円満だが、この秘訣《ひけつ》はある古書(武士道についてのべたもの)から教えられたもので、我ながら二人の女をあやつる演出に満足をおぼえていたものだ。しかし、このときは涙が出た。  胃腸はよいのだから食欲はある。食べれば自然出る。ところが出ない。中のものは出たがっているのだが、出るべき箇処が傷つき腫《は》れ上っていて激痛をともなっているのだから、出たがるものを通してくれない。力むと出血、貧血の連続。それまでに、ぼくは三度も便所の中でぶっ倒れていたのだ。  このときは、ついにテレビへ出られず、局側へ大変なめいわくをかけてしまっただけに、暴君の権威を失墜させた階段落下は、 『よし、一年つづけるぞ』  の決意となったのである。   思いがけぬ副作用  これが約七年前のことだ。一年やり通して以来、まったく、痔の痛みから解放されているぼくだ。  一昨年の十二月から去年の十二月まで、おせいさんは、ついにやりとげ、それでも、 「あの苦しみと、お医者に見せるつらさを考えたら、何でもないことでしたわ」  と、いった。 「体操なんてバカな——手術するのが本当だよ」  という人もいるが、近年、ぼくのこの体操も医学的によく効くという証明がなされたようである。結局、太腿《ふともも》の部分に眠っている余分な血液を患部へ送りこむわけで、これが痔病には非常によいらしいのだ。 「眠る前に体操をして、床へ入ったら湯タンポか電気アンカの小さいのを腰へ宛《あ》てがって寝ると尚さら効く」  というぼくの注意も、おせいさんは、きちんと守ってくれたらしい。御亭主も、この冬はY温泉へ戻《もど》って来て、女ぐるいもやんだそうな。  翌朝、まだ雪はやまなかった。  で、雪の那谷寺《なたでら》を見に行こうと車をたのみ、玄関へ出ると、車と一緒に、おせいさんの御亭主がやって来て、ぜひにも同行するという。小ぶとりだが、いかにもエネルギッシュなこの五十男に、ぼくは北陸へ来るといつも会い、共に酒をのむ。  那谷寺の雪を見て、境内の茶店へ入り、熱いかけそばで酒をのんだ。 「やあ、どうも」 「よくいらっしゃいました」  盃を上げ合ってから、ぼくが、 「よかったね、おせいさん」 「ええ、おかげさまで……」  こういってぼくを見た河辺芳太郎の両眼が、じわじわと涙でうるんでくるではないか。 「もともと、私は、うちのかみさんがきらいじゃないんで……」 「そりゃ、そうでしょうとも」 「いえ、ほんとなんですぜ、からかっちゃァいけません。しかしですよ。もう十一月の声をきくと、いままでのあいつは、もう役に立たない。これァ私、困る。ね、おわかりでしょう山崎さん。困るんだ、ほんとに——」 「五十をすぎてもね」 「だってあなた、十一月からほとんど三月いっぱいまで、おせいはもうダメだったんです。それがですよ、あの体操で、もうほんとに、けろりと癒っちまったんで……ふしぎですなあ、ふしぎですなあ」  二人で四合もあけると芳さんは、いい気持になり、 「それにさ……」  きらきらと眼をかがやかせ、 「あそこが、むかしのおせいに戻《もど》っちゃいましてね」  と、いうのだ。 「あそこ?」 「ええ、もう、ぴゅっとこう、ひきしまって、そりゃァもう、すごいんです」  もう、これ位にしておこう。  つまり、一年間の体操によって、おせいさんの痔痛が消えたばかりか、御亭主を欣喜雀躍《きんきじやくやく》させるほどの若やぎを�あそこ�に取戻した、ということになる。 「ほ、ほんとかね」  ぼくは愕然《がくぜん》とした。  そういうことにまで、わが体操の効果があらわれようとは、はじめて知ったことなのである。  河辺芳太郎は、ぴたりと両手を合せ、ぼくを拝むのである。 「ほんまにもう、山崎さんのおかげですワ」  車の代金も、そばや酒のそれも、彼は頑《がん》としてぼくに払わせない。 「私に払わせないと怒ります」  と、彼が真赤になって張り切っているのだから、どうも仕方がないのだ。   ジ用体操の赫々《かくかく》たる戦果  この夜も、河辺夫婦の歓待ぶりは前夜にまさるもので、二人とも商売そっちのけで何や彼やとしてくれる。  恐縮して困るばかりだったが、 『そ、そんなにうれしかったのか……』  と、なっとくも行くような気がして、二人の好意に甘えてしまうことにした。  その翌朝、ぼくは、この前のときと同じように、おせいさん得意の沢庵漬をしこたまもらい、S屋を発った。  それから五日間、ぼくは雪や雨の北陸路へ沈潜したが、帰京の途次《とじ》、名古屋のデパートから、いまも一つ夜具にねむるという河辺夫婦のために、緋色の、かるい掛ぶとんを買って送った。  年が明けて今年の元旦。賀状の中に、京都在住のシナリオ・ライターK君からのものもあって、 「——例の体操、拳々《けんけん》服膺《ふくよう》して居ります。もし、お説の通りになりますと、私にとって、今年は十何年ぶりの、よい年になる事が出来るのです」  と、そえがきがしてある。  いま、この稿を書いているとき、すでに春の陽光は部屋にみなぎっているわけだが、ぼくは京都のK君へ電話をかけることにした。 「やってますかな?」 「やってます。調子、とてもええですワ」 「そりゃよかった」 「あのネ……」 「何?」 「よろこんでますワ、女房……」  そうでしょう、そうでしょう。しかしである。 「調子よくなったからといって、やめちゃァいけませんぜ、今年いっぱいは——」 「ええもう、やってしまいますワ。いま毎晩七百回です」  と、これはまた大変なもんだ。  さっき、下の部屋で我家の女二人と茶をのんだとき、この話をすると、おせいさんのことも知っているおふくろが、 「お前さんのような男でも、人助けが出来るんだねえ」  あきれたように、いったものだ。  痔は手術して簡単に癒《なお》るものだそうで、何もめんどうな体操を一年間もやらずともよい。それは、わかりきったことなのだが……。  けれども、こうした経過の後に癒った痔病については、「いうにいわれぬなつかしさ……」と、おせいさんの言葉の通りのものがあって、もう一度、あの一種独特な激痛の中へ、ひたりこみたい気さえする。 [#地付き](文藝春秋・昭和四十一年五月号)  [#改ページ]   道楽の旅   化ける  こころみに「道楽」という語句を辞書でひいてみたら、 「本職以外の道(趣味)にふけり、たのしむこと」  さらに、 「酒色、博打などの遊興にふけること。放蕩、遊蕩」と、ある。  ま、このように解釈するのが順当でもあろうか……。  旅をするということに、これら「道楽」のすべてがふくまれていることはいうまでもない。旅にもいろいろあるだろうが、ぼくにあたえられたテーマは「道楽の旅」について書け、というのだ。  時代小説を書くという「本職」柄、大小の旅をいつもしている。しかし、仕事のための旅が終われば、たちまちに道楽の旅となるのであって、辞書にある「本職以外の道……」に没入するために、ぼくは自分の仕事も、名前も忘れてしまうことにしている。  これが旅をたのしむためのまず第一の条件であろう。  ぼくなど行く先々によって長崎の「べっこう屋」になったり、京都の「呉服屋」になったり、札幌の電機器具商になったり、いろいろであるが、 「あなた、刑事さんでしョ」  と、宿の女中にいわれれば、そのつもりで応対する。一度やってごらんなさい、いろんな意味で、あたり前の旅行をするよりも、ずっと楽しい筈《はず》だ。  どういうわけか、ぼく、宿の女中さんたちには「呉服屋」にさせられてしまうことが多い。で、このごろはデパートへ行っても呉服売り場を見てまわることをするようになったし、衣類に関する書物もあさるようになった。  呉服屋ならそれらしく服装もととのえるし、画家になって行くときは、必ず、くろうと風の画道具も持参する。  たとえば北陸へ行くときは長崎の「べっこう屋」になり、長崎市古町の友人の住所と名前で宿へ泊る。だから、その宿の年賀状は友人のところへとどくし、友人がまた、これを東京へ回送してくるのである。  人間は無意識のうちに「演技」をたのしむ性質をもっており、ことに、長い間、芝居の世界で仕事(脚本)をしていたぼくのような男には、旅で種々の人物に化けることが実にたのしい。いえばまあ、化けの道楽とでもいうかな……。  先頃は、岡山、赤穂までは仕事の調べでまわり、それをすましてから信州・上田のレストラン主人に化けて旅をつづけた。  赤穂から小舟をやとい、老船頭と二人で室津《むろつ》まで海をわたって行ったが、 「旦那のような人は、商売がら毎日うまいものを食べているんだしい?」 「いやもう、毎日、菜っ葉に味噌汁ばかり食っとるんですわ」 「へえ、そんなもんかね」 「そんなもんだ、こういう商売をしてるとね」  酒好きの船頭に一升買って、ときどき舟をとめては二人で冷酒をすすりながらあかるい播磨《はりま》灘《なだ》の海をながめていると、まったく、すべてを忘れてしまう。  こういう旅をして帰京すると、ふしぎに心身が活力を取りもどしているのに我ながらおどろくのである。   海から町へ入る  この回では、旅のコースのとり方について書きたい。  たとえばだが、前回にのべた赤穂から室津へ行くためには国鉄で播州・竜野か網干まで行き、そこからバスかタクシーで山越えをし、岬と入江に抱きすくめられている目的地へ着くのが順路である。  このコースを往復したのではまことにつまらない。赤穂には御崎という漁港があるし、ここの組合に問い合わせれば小舟の一つや二つは何とか出してくれる。  いうまでもなく室津は、往古から栄えた港町だ。五泊の随一《ずいいち》と称されたほどで、四国、九州、中国の大名たちは、江戸や京坂への往復に必ず室津へ船を寄せたものだし、お夏清十郎や遊女・友君の伝説で有名なところだが、しかし、そのころの繁盛を物語る古い町並みが、いまはもう廃虚の挽歌を奏《かな》でつつ、しずかに横たわっているのだ。  この町に人が住むかぎり、室津の歴史をひそませた古い家並みは近いうちに、かならずや日本のどの町にも見られるような類型に変じてしまうことだろう。  こういう港町へ入るときのコースとして、国鉄の駅から自動車で入るよりも、酒好きの船頭と二人きりで、海をわたって、ひっそりとすべりこんで行ったほうが、どれだけたのしいか知れたものではない。 「旦那も物好きだねえ。あんなきたねえところへ何しに行くんだしい?」  一升あけて、ゆでダコみたいになった船頭が船を港へつける。 「ごくろうさん」  船から埠頭《ふとう》へ足をおろしたとき、ぼくは数百年前の旅人そのものの気分になっていた。  海から入江に舟がすすむにつれ、遠く見えていた古い土蔵の壁や、漁船や、寺の鐘楼やが、刻々と目の前に近づき、ついにそこへ足をおろす。これはタクシーの扉をあけ、室津の港へ第一歩を下すのにくらべて大変な違いがある。  こういう旅の仕方というものも、近い将来にはできなくなるだろう。いくら船をつけても、そこにある港町が、どこにでもあるモルタルやペンキ塗りの町並みであったら、タクシーで行っても同じことなのだ。  目的地が、まだ古い歴史をとどめているところなら、そこへいくためのコースをえらぶべきである。地図は、このためにある。たとえ、いそがしい旅程の中でも、ぼくは、こうしたコースのえらび方を一度二度はして来る。  さて……むかしの旅人のつもりで波止場から歩き出せば、この港町の人という人が(どこのやつが、何をしに来たのだろう?)という表情を露骨《ろこつ》にして、その視線は、ぼくに集中する。  むかしは旅人が来るための町であったのだが、いまはもう他国の人間が来るはずのない町になっているのである。  ちょうど昼どきだったが、この腹のへった旅人を迎える食堂一つ、うどん屋一つ、この町にはなかった。そしてまた、こういう町で食うものをさがすのが、また、たのしい。   手作りの美味  幅四メートルにもみたぬ室津のメーン・ストリートの両側には細い格子《こうし》造りの表がまえをした小さな古い家並みがぎっしりとつらなっている。その路地の向うに昼下りの、あかるい波止場がしずかにある。家々の軒にはタコや魚が干してあり、腰のまがった老婆が杖をついて、よちよちと歩いて行く。昼間のこの町には、ほとんど若いものはいない。みな相生《あいおい》や姫路へはたらきに出てしまうからだ。  こうした町はずれの海と岬を見わたす一角に「K旅館」がある。 「ごめん」  中へ入って呼ぶこと六度。奥から幼女のごとくあどけない老婆があらわれた。顔がひざのあたりにある。つまり、それだけ腰がまがっているのだ。 「何か、その、食べたいんだがなあ」 「何も出けまへん」 「何かあるでしょう」 「親子どんぶりで、ええですかな?」 「ええですとも」  客もこないので、家人はみな出払っているのだという。海にのぞんだ部屋で、あぐらをかき、熱い酒でタコのスノモノを食う。 「うまい!」  思わず声を発したほど、この、とりたてのタコの歯ごたえは充実していた。  やがて、老婆が盆の上のどんぶりをカタカタ音をたてながらはこんできた。足もとがさだまらないから、どんぶりが盆の上でゆれているのである。 「おっと、ありがたい」  受けとって食う。トリ肉の用意がないから穴子入りの親子丼であった。  つまらぬことだが、こういうものを、こういうあどけない老婆がこしらえてくれたということで、ぼくは、もうたまらなく旅に出ていることがたのしくなるのだ。  三年前、伊賀上野へ朝着いて、町はずれの小さな旅館へ入って朝めしをたのんだときも、この室津の老婆のようなお年よりが、わざわざ飯をたき、みそ汁をつくり、フロにまで入れてくれて、どうしても百五十円しかとらない。室津K旅館の酒とめしは合計二百五十円也。  旅へ出て著名な店で、しかるべきものを味わうこともたのしみだが、こういう思いもかけぬ情趣をふくめた味を、ぼくは、かならず手帖に記しておく。  信州・篠ノ井駅前の店の「そば」とか土佐の佐川の町の小さな食堂で食べたチキン・ライス(あぶらの乗った鶏肉のうまさにひきずられて、そのトリ肉をタタキにした親子丼を重ねて注文したら、これは非常な逸品であった。トリがよく卵がよく、調理に心がこもっているのである)とか、秋田駅近くのシナそば屋のチャーシュウメンとか、佐久市野沢の「やぶそば」だとか、こんなことを書いていたら、もうキリがない。  この二月に、久しぶりで高知へ行ったときも、ぼくは佐川の食堂へわざわざ出かけて行き、タンノウしてきた。   食べプラン  もう少し食べもののことを書く。というのは、飲食が旅人におよぼす影響は非常なものだからだ。腹をこわしたりして体調が乱れれば他のたのしみも味わえなくなる。ぼくは、もう若くない。むろん家にいるときよりも、体をうごかしているし「食ってやろう!」という意欲もさかんであるから、旅へ出ると二倍は食べる。  もう宿で夜ねむるときから、あす食べるものについて心をくだかなくてはならない。  たとえば信州・長野へ行って常宿の五明館へ泊るとする。 (あすは昼ごろに上田へ出よう。市役所・観光課のM君をさそって昼めしは但馬軒の馬肉のすきやきにするか……となると、いくら五明館のめしがうまくとも、あんまり食べてはいけない。ではあすの朝飯は、ここのオムレツがトテウマだから……) 「トテウマ」とは「とてもうまい」の略語なり。 (トテウマだから、オムレツに野菜サラダくらいにしておこう。そして昼めしは馬肉。少し食いすぎても午後は別所方面の寺などをめぐり歩くから腹ごなしには十分だが……夜、上田へ帰ってきて何を食おうか。あまり食べてはいけない。なぜといって夜の列車へ乗って帰京するのだから、横川駅の弁当をどうしても食いたい)  横川駅の「釜めし弁当」は、今や全国的に有名になってしまったが、ぼくの買う弁当は普通の弁当だ。これは若ドリの焼いたのと生野菜が入っていて実にうまい。 (だから晩めしは軽くしよう。となれば、なつめ河岸のやぶそばで軽くのみ、あとは冷めたいざるそばがよろしい)と、これできまる。  ここでもって、五明館でこしらえてくれる弁当のうまさを思い出したりすると、またまたせっかくに出来上った計画をはじめから組み立て直さねばならなくなるのだ。男のなやみというものは実に、まったく尽《つ》きないもんだと、しみじみ思う。  旅へ出て、こういうことを考えることは、小説を書くとき構想になやむのと同じようなもので、ばかばかしいことだろうが、このなやみがあればこそ旅のたのしみもある。  しかし、また(あすは、ここで、こういうものを食べ、あそこで下車して、あの店のあれを食べ、こうして、こうなって……)  と、すらすらまとまったときのうれしさはまた筆舌につくしがたい。そうなるとまた、あすの旅がたのしみで眠れなくなってしまうのだが……。  ぼくは旅行中、かならず茶をつめた大きな魔法びんを携行する。これは駅弁をゆったりした気分で味わいたいためで、茶が好きなぼくは、あの小さなびんにつめられた駅売りの茶をチビチビのむのが大きらいだからだ。  だが、これほど気をつかっていても、失敗することもある。ねらっておいた獲物に狂いができたり、お目当ての店が休みだったり、昼に思わず食べすぎて、夜を台なしにしたり……旅と食物の関係は〔人生〕そのものだと思うことさえある。   旅先きで知り合った人々  ぼくには、旅の空の下で知り合った友人が実に多い。  仕事の調べで世話になった人たちや、ぼくの職業も本名も知っていてのつきあいをしてくれる人びとも多いが、すでにのべたような「化け道楽」の旅で知り合った人たちは「冬になったから、そろそろ長崎のべっこう屋さんが来るね」とか「来年の春に、あのサッポロの電気屋の旦那さんが来たら、かならず知らせてくれよ」とか、たのしみに待っていてくれる連中なのだ。  宿の女中頭、あんまさん、客引き、番頭、駅の助役、そばやの主人……さまざまな仕事をもっている知り合いなのである。  赤穂から室津まで舟を出してくれたあの酒好きの老船頭にも、おそらく、その夏に予定している広島旅行の帰途、再会できるだろう。そのときは彼と、また舟を出し、夏の播磨《はりま》の汐風に吹かれつつ冷酒をくみかわすつもりだ。  十年も前に、はじめて信州・松代の城下町へ行ったとき、行きずりの小学生に道をきいた。  この男の子が可愛かったので、カメラを向け、 「写真を送るからね」と、別れた。  むろん帰京後、送ったわけだが、そのころ八歳だった高島正人君は、一日千秋のおもいで写真を待っていてくれたらしい。  彼の父君から返事が来て「実は、行きずりの人のいうことなどアテにはなるまいと私どもは思っていたのですが、このたび写真をお送りいただき、息子が大よろこびをしているのを見るにつけ、純真な子供の気持ちにこたえて下さいましたことを、ほんとうにありがたくおもいました」と、あった。  こっちは当然のことをしたまでなのだが、この手紙で、あらためて教えられたことは(あ……おれは子供のころのキモチを忘れかけていたのだな)と、いうことだった。  何のことはないかも知れぬ一枚の写真を待ちこがれるような子供の心は、むかしのぼくも、たしかに持っていた。  子供との約束をふみにじってはならぬと、つくづく知った。  この正人君も、もう十七か八になる。いまでは家族ぐるみのつきあいになっている。  こういうわけで、旅をしているうちに常宿の女中さんが京都の病院へ入院しているとき行けば、旅程を変更しても見舞いに寄るし、こういうつきあいの人たちを全国的に持っていることは何とも心うれしいことだ。  こういう人たちと親身につきあうことによってこそ、行く先々の風土を、人情を、味をたのしむことが層倍のものとなるのである。  仕事を忘れ、旅先きで再会した人と、ゆっくり朝の酒をのむことは、たまらなくうれしい。  ぼくの昼間の酒は、旅先きでのみ自分にゆるしている。   深く味わいの濃い旅  旅をするということは未知の世界へ足をふみ入れることだ。  現代の旅行は、おそるべき交通の発達によって旅人を真の旅人にさせなくなった。団体旅行でおきまりのコースを駆《か》け足で通り、宿へついて、これまたおきまりの芸妓をよんでの宴会。それが終わるとヌード見物、などという旅行をしていたのでは、とても旅中に道楽を見出すことは不可能である。  旅は一人にかぎる。  ぼくの知人(中年のサラリーマン)に、年に一度、たった一人で旅をする男がいる。  この旅をたのしむために、彼はタバコや酒を倹約し、コツコツと旅費をため、妻にも子にも告げぬ三日ほどの年末旅行をたのしむのである。彼もまた、ぼくの旅の仕方と同じだ。この一年一度のひとり旅によって彼は一年の垢《あか》を落とし、さらに翌年へ向って活力をあたためるのだという。  彼やぼくのような旅をすれば、現代の〔近代化〕とやらいうものによって変形されつつある日本の風土の中に「未知の世界」を見ることは、まだまだ容易である。  もしも、一年に一度しか行けぬ旅行なら、最終目的地を同じ土地にしぼることである。京都なら京都、長崎なら長崎、平戸の島なら平戸……気に入った土地ならば十回、二十回行くたびに、旅人は旅することのたのしさが、どれほど深いものかを知るだろう。そして、その往復のコースをさまざまな工夫によって変えて行くことだ。遠くへ行けなければ近くでよい。思いもかけぬ土地が諸兄の住む町の近くにかならず一つや二つは存在している。  それほどに日本の風土は旅人にとってめぐまれているのである。  有名な観光地へ行く場合でもぼくはそこに泊らぬことが多い。その少し手前か先の小さな町の宿屋へ泊る。シーズン最中の旅行客であふれ返っているようなときでも、こういう町には、きっと、あたたかく旅人を迎えてくれる宿があるものである。  たとえば豊後《ぶんご》の竹田なぞ、阿蘇から別府へぬける観光客が(荒城の月)で有名な竹田城を見物したとしても、めったに、この古い静かな城下町へわらじをぬぐものではない。  ぼくはいつも一人旅だが、いつ出かけても泊りはぐれたことは一度もない。  さて、旅と女はつきものだというが……。  旅へ出たから女をあさるというのでは、とても(旅道楽)にはならないのだ。このことは自分の旅をふかめて行くにつれ、各人それぞれにナットクされることであろう。  読者諸兄の旅が、ふかく、味わい濃くなり行くにしたがい、女性は自然に、情もこまやかに諸兄の腕の中へ飛びこんで来てくれることと、ぼくは思う。  自分ひとりの旅をふかめて行く秘訣は日常の自分と別の人間(化けの道楽をしろというのではない)になって旅することを、もう一度いいたい。案外、その別の人間のほうが真の自分なのかも知れないからだ。 [#地付き](内外タイムス・昭和四十一年五月八日、九日、十日、十二日、十三日、十四日・道楽太平記) [#改ページ]   安兵衛の旅   1構成ひらめく  むかし、芝居の脚本を書いていたころ、新国劇に〈決闘高田の馬場〉というものを書いたことがある。  中山安兵衛を辰巳柳太郎が演じて、この芝居は東京でも大阪でも名古屋でも大当りをとった。何本も書いたぼくの芝居の中でも、これほどにうけた舞台はあまりない。  これは、ぼくの脚本や演出が優秀であったというのではなく、中山安兵衛という人物がもつ「人気」が、昭和の現代に、まだ脈々として生きているからなのだろう。  辰巳氏の安兵衛がすばらしかったことはいうまでもなく、あまりに客にうけるものだから、ご当人も非常な張り切りようで、名古屋の舞台では、高田の馬場の立ち回りのとき、相手の刀のツバで自分の指をブチ切ってしまったほどだった。  この芝居は、いわゆる二番目狂言として書いたものだから、高田の馬場では、やはり安兵衛も十八人を斬り倒したし、ぼくの演出も、お定まりの黒紋つきの裾《すそ》を端折《はしよ》り、浪人まげに白の鉢巻という姿で、牛込の浪宅で叔母・宇乃《うの》からの手紙をよむや、花道を飛んでかけつけるという、例の講談調であった。  芝居の場合、ことに二番目の出し物としては、やはりこのほうが客にうけるし、ぼく自身が見ていてもたのしい。  それから約十年たって、安兵衛を小説に書くことになったわけだが……。  今度はむろん、講談の安兵衛であってよい筈《はず》はなく、ぼくは少年のころから大好きなこの「伝説的英雄」の人間像を描くについて野心をもやした。  新しい小説を書くとき、その背景となる土地が未知のところである場合、ぼくは、その土地へ必ず足をはこぶ。  安兵衛が生まれた越後・新発田《しばた》を、はじめて訪問したのは一昨年の十二月中旬だった。  このとき、越後の小千谷《おぢや》、長岡で所用をすましてから、タクシーで新潟へ入ったのだが車中も気がはれない。  安兵衛への野心を、どのような方法でもやしたらよいのか……彼に関する資料も手に入るかぎりは読んでいたのだが、彼の人生のどのあたりから書きはじめたらよいのか、新しい長篇を書き出すときはいつもそうなのだがそこに骨が折れる。  書き出して第一回を新聞にのせれば、もう後はとまらないのである。  地震後の復興工事で新潟周辺の道路は車の洪水だった。  その夜、新潟へ泊り、翌朝、ふりはじめた雪の中を新発田へ向った。  新潟日報の支局長・H氏の心のこもった案内をうけ、先ず旧外ケ輪の城の濠《ほり》に近い「中山安兵衛誕生の地」跡を見、さらにその近くに今も残るわらぶき屋根の質素な旧侍屋敷を見た。同行して下すった郷土史家の波多野、杉原の両氏によると、この屋敷は中山弥次右衛門級の藩士が住んでいたらしいということで、それをきいたとき、一瞬のうちに、ぼくは今度の小説の構成をつかむことを得た。  構成といっても、ストーリーが出来たというのではない。長篇、短篇の区別なく、ぼくの場合、何かの拍子に、これから書こうとする小説の全体が何かこう、一瞬の光芒《こうぼう》となって頭にうかぶ。うかんでくれば「出来た」ことになるのだ。  わら屋根の侍屋敷。その庭の積雪の上で、雪をかぶった少年の安兵衛が父親にシゴかれている情景が、次にうかんできた。  堀部安兵衛第一回の書き出しは、だから、この雪の日の新発田訪問が生んでくれたものといってよい。新発田城下の風物がかもし出す雰囲気を野口|昂明《こうめい》画伯は、実によく紙上につたえて下さった。   2新発田の町で動き出す人物  作家にとって、自分の小説の舞台となった土地は忘れがたく、また愛着もふかまるものである。  旅行することが多く、越後路も何度か往復しているぼくだが、新発田という町を見、その町に何人かの知己を得たのは、安兵衛を書いたおかげだった。  その雪の日は午後になって晴れ、旧藩主の下屋敷だった〈清水園〉も見物した。中央の泉池をかこむ、この、むかしの殿さまの別邸の中に、越後・刈羽《かりわ》の山村の古い民家が民俗資料として移築されている。  ひろい土間を中心にして人も飼馬も共に起居する小さな民家の内部を見、その平面図をノートしているうち、 〈これは、おなよの生まれた家なのだな〉  と思う。  すると、かすかな映像でしかなかった彼女が、にわかに小説の中で生き生きとうごき出して来るのだった。  男やもめの中山弥次右衛門と彼女とのシチュエーションは、こうして生まれたのだし、やかましい武骨者の彼が、彼女のことで我子の安兵衛に頭が上らなくなってしまう。そうして、はじめて我子へ甘い声をかけるようになったとたん、彼は事件に巻きこまれて憤死することになる……。  少年時代からの安兵衛の環境と、それを小説化するための素材は、まことに意外なところから連想をよぶものであって、こういうときが作家にとって、もっともたのしい時期なのだ。  だから、ぼくは新発田図書館を訪問したときも、館長の高橋氏にねだって、氏の幼少のころからの思い出を語っていただいた。  夏のころの湿気をふくんだ暑さや、農家の冬ごもりのありさまや、積雪の状態。  むかしは藩の献上品だった鮭が加治川でとれたという話や、福島潟で釣れるフナ、コイなどの話が小説の安兵衛や鍛冶《かじ》屋の虎松へ、どのように作用したかは、読者諸氏がよく御存知であろうと思う。  春つけて秋にたべるイワシの塩漬も、たしかに中山家の台所にあった筈だ。  さらに八月の諏訪神社の祭や七夕、月見の行事なども小説の中に描きたかったが、小説の人物というものはふしぎなもので、作者の筆にまかせず何処《どこ》かに走り出してしまうことがある。  父についで祖父を失った安兵衛をぼくはもう新発田へとどめておくことが出来なくなってしまった。少年の彼は、父の死の真相をたしかめるべく無謀大胆にも出奔《しゆつぽん》してしまったからである。  しかし、こうした彼の行動が、小説の中の中津川《なかつがわ》祐見《ゆうけん》をよび、菅野六郎左衛門、鳥羽又十郎などをよんだことにもなるわけなのだ。  しかし、新発田の盆の花市だけは、これから小説の中へ出てくる筈だ。中山安兵衛も堀部安兵衛となって、高田の馬場から浅野の臣となり、そしてあの有名な〈事件〉の一人として死を迎えることは周知のことだが、ぼくは、ふたたび故郷へ帰ることのなかった彼が三十六歳の生涯を終える寸前において、新発田の花市をえがくつもりでいる。さて、どんなことになるか、御期待をいただきたい。  新発田へは、その後、二度行っている。  清水園と小さな濠《ほり》をへだてた足軽長屋と、それらをかこむ町の風趣には忘れがたいものがある。  安兵衛が一時いたことがあるといわれる新潟市や出羽・鶴岡や、越後・出雲崎にぼくは足をのばし、そのいずれの土地にも愛着をおぼえたが、小説の中の安兵衛は、それらの土地にはふりむいてもくれなかった。  この小説を書いていて、もっとも骨が折れたのは、十四歳から三十六歳にいたる彼の二十数年間の成長を一年ほどで追いかけなくてはならなかったことだ。   3パッときまった敵《かたき》役  今度の小説で堀部安兵衛という男を描くについては作者としても種々の方法があり、ことに前半生には不明のところが多い彼だけにたとえば故滝本誠一法学博士の著書に紹介されている珍説で安兵衛と近松門左衛門とが兄弟であるというのがある。  むろん何の根拠もない説なのだが、作家としては食慾をそそられる説話だし、事実、いま残っている安兵衛関係の史料をもとにして仮にストーリーをまとめてみると、それほどおかしくはなくなってくる。  年代も、うまく合うのである。  ところでぼくは元禄という時代に生きていた安兵衛という青年のつもりになってテーマを打ち出すことにした。  時代小説として、これはオーソドックスな手法ではあるが、元禄という時代そのものが現代に通ずるものをじゅうぶんにもっているので、むしろ、そうした描き方に拠《よ》ったほうが読者にもかえって新鮮な安兵衛像を見ていただけると思ったからだ。  中津川祐見を、安兵衛の少年時代から登場させるつもりはなかった。  祐見は実在の人物で、高田の馬場で義兄弟の村上兄弟の助勢をしたことはたしからしい。  いずれは安兵衛と相対する剣士として、かなりのボリウムをあたえるつもりだったが、第一回の新発田行のころは彼の映像も、まだまだぼんやりとしていたのである。  新発田の帰途、出羽から秋田、引返して越後へもどり、岩室温泉に泊った。  この温泉には、むかし近くにいた良寛和尚も湯治に来たとかで、越後芸妓で知られたところだが、ぼくが五年前に行ったときと、あまり変っていない。  ということは、近ごろのどこの温泉地にも見られる都会風なケバケバしさに毒されてなく、宿がならぶ表通りにも、まだ、わらぶき屋根の民家があり、それがまた芸妓の置屋だったりするひなびた野趣がただよっていたのがうれしかった。  岩室の宿で夕飯を食べていて、アマエビの刺身を口へ放りこんだとき、 〈祐見は京都出身の鍼《はり》医にして、しかも剣術に長じている男〉  このときも、パッときまった。  取材の旅をするときは遊んでいるように見えても、脳裏では絶えず新作にあらわれる人物を追求しているのだろう、とんでもないときに、きまってくれる。  ぼくは、この岩室の湯か、弥彦《やひこ》山あたりで安兵衛と祐見の初めての出合いをさせるつもりだったのだが、足軽・福田源八を追う安兵衛ゆえに、どうしても、このあたりへはあらわれてはくれなかった。  古い絵図と現代の地図とを見くらべ、源八と安兵衛の姿を追いかけているうち、必然的に、この二人は越後から上州へかけてのどこかでぶつかり、斬り合わねばならなくなってきた。  で……二人の決闘は、上越国境・三国《みくに》峠でおこなわれたのであるがこのあたりは少年のころから、ぼくにとってなじみふかいところなのだ。いまはりっぱなバス道路ができて、三国街道の風情は、ほとんど消えてしまったが、三国峠や苗場山やさらに下って赤沢林道から四万《しま》へぬける山道などが好きで、戦前のぼくは、ひまがあるとよく出かけてきたものだった。  したがって、三国峠の下にある法師温泉へも、そのたびに泊った。そのころのランプの灯がはいった谷底に一軒しかない山の湯の神秘さは、若い都会育ちのぼくにとって強烈な印象だったものだ。  この温泉が、祐見と安兵衛の友情をあたためる場所となったのも当然のなりゆきであったろう。  このときは、若いころのイメージがこわれるのをおそれ、ぼくは三国峠へも山の湯へも足を向けなかった。   4ときめきを覚えた高田の馬場  高田の馬場の旧蹟をたずねたのは、去年の夏も終ろうとするころだった。  この場処に安兵衛が登場するのは、まだずっと先のことだったが高田の馬場の決闘は吉良邸討入りとともに彼の人生を決定づけた大事件であるし、ぼくは中津川祐見との対決、恋人・伊佐子の死など、それまでの安兵衛の〈生活〉を織りなしていた人びとの流れを、一挙に、この決闘へむすびつけるつもりだった。  それだけに、いざ決闘となって唐突《とうとつ》にこの場所があらわれて来るのは、いかにも手軽な〈あつかい〉になってしまう。  何かのかたちで、ぼくは高田の馬場周辺を前もって安兵衛へむすびつけておきたかった。  東京で生まれ育ったぼくだが、いまもって東京の町に知らぬところが多い。  高田の馬場からは、さほど遠くはない江戸川橋に戦前は暮したこともあるのだが、この日、早稲田大学前でタクシーを降りたときには、何か別の土地へ取材に来たような胸のときめきをおぼえたものだ。  大学前から穴八幡へ出るまでは何度も来ているし、別だん感興もわかなかったが、早稲田通りから右手へ切れこみ、戸塚町の細い道へ入りこむと、すでにそこは馬場跡である。  いまは戦災にも焼け残った古い家が、びっしりとならんでおり、それだけに、このあたり一帯は、ぼくが育った浅草の下町のような感じを残している。  駄菓子屋だの、そばやだの、小間物屋だのの、ちんまりした店も見られ、何と〈安兵衛湯〉と名のる銭湯があったのには、たのしくなった。  この町の人にきくと、この細い道を〈安兵衛通り〉とよんでいるそうである。  明治四十三年に行田久蔵氏が、この旧跡の消えるのを惜んで建てた〈堀部|武庸《たけつね》遺跡碑〉も、この通りにある。  なかなかに立派なもので、掃除も行きとどいているのだが、この碑を見つけるまで、あたりを通っている少年少女に、 「中山安兵衛の碑は、どこにありますか?」  きいても、首をかしげて、 「さあ……」  困惑している。  たばこ屋の老女にきいたら、すぐにわかった。  むかし、この碑があった場所は馬場の東口に近いところであったらしい。  ふしぎなもので、家々がたちならぶこの旧跡をよく見てまわると、東西六町、南北三十余間という高田の馬場の地形が歴然とあらわれてくるのだった。  古い江戸の地図を見ながら、ぼくは、かなり急な坂道を面影《おもかげ》橋へ下って行った。  この橋がかかる神田上水に沿って下れば堀内源左衛門道場前にかかっていた立慶《りゆうけい》橋へも出るし、さらに下れば安兵衛や祐見にとってなじみもふかい船宿の前にも出る。  菅野六郎左衛門にひろわれた安兵衛を高田の馬場に近い林光寺へあずけさせたのも、やはりこの日に得た着想なのである。  このときの決闘を、いわゆる講談調でなく出来るかぎりの史実を根拠にして書くつもりだったので、いままで多くの人の頭にしみこんでいる安兵衛像に失望をあたえることなく(ぼくもまた失望したくなかった)迫力を生むため、決闘前後の構成には、これでもひどく苦労をした。  さいわい、うまく行ったように思う。  ちかごろ、ぼくのところへ来る読者諸氏の投書によって、それが、はっきりとたしかめられたからだ。   5赤穂の町で  新聞に連載しはじめると、未知の読者やら、先輩、友人たちから、種々の資料の提供をうけたし、菅野六郎左衛門の主家があった伊予・西条の図書館や郷土史家からも親切な手紙をいただいた。  これらは、いずれも傍系資料として大いに役立ってくれたけれども、かんじんの安兵衛については、あまりくわしいものがなく、結局、大正元年に出版された上野喜永次氏の小冊を根本《ねほん》にし、あとは思うままに書いた。  浅野家の臣となり、堀部安兵衛となってからの彼については、全体の四分の一という割合で描くつもりでいたし、この構想の通りになったようである。  だが、赤穂浪士としての彼を手軽にあつかおうというのではない。  ここで、ぼくの〈忠臣蔵〉を書いてしまっては、長篇も長篇、大長篇になってしまうし、この事件に関しての、ぼくの考えをのべるにとどまる程度にし、あとは読者諸氏にゆだねることにしよう。  あまりにも有名な事件であるし、そのほうが引きしまった構成になるというものだ。  といっても、赤穂浪士に関する史料は、新たに入手したものをふくめ、かなりの分量を読破し、念を入れた。  前に二度ほど行ったことがある赤穂へも、去年の十二月に出向いた。  この旧城下町は、まだ当時をしのばせるものをじゅうぶんに残している。  赤穂の町は御崎の風光と赤穂浪士でもっているところだ、と、いってもよかろう。  何よりも、大手門を入って、本丸へ向う道の右側に大石|内蔵《くらの》助《すけ》邸の長屋門が、そのままに建っているのがうれしい。  明治になってから、この門を塩の倉庫にしようとしたことがあるそうだ。  大石邸は、この長屋門のみで、旧邸内は大石神社となっているわけだが、社前の泉池をふくむ庭は、むかしのかたちをとどめているという。  そう思ってみると、およそ、大石邸内の様子が、 (このあたりが玄関口で、あのあたりが書院で……)  と、見当がついてくる。  三日いて、御崎の旅館から赤穂の町へ通った。  この旅では、別だんにメモをとったり、図書館をしらべたりはせず、小舟を出して海から町をながめたり、義士たちの宅阯《たくし》の石碑が点在する旧城下町のあたりを、あたたかい初冬の陽ざしをあびながら、のんびりと歩きまわった。  浅野家の菩提所《ぼだいしよ》である花岳寺も冬のことで見物が一人もいず、ゆっくりと寺内に残る旧水道の遺構を見たり、博物館の遺品を見たりした。  それにしても、大石内蔵助という人物の複雑な、底のふかい性格を今度はあらためて認識したように思う。  内蔵助は、いかなる時代に生きても、第一級の男として通用する人物だ。  あの事件が起こってから討ち入りまでの短い年月において、この男は、それまでの四十数年の〈おだやかな沈黙〉をかなぐり捨てて、すばらしい炎の色をふきあげる。  ぼくは内蔵助の四十年の沈黙を描きたいと思いはじめている。  この沈黙は、おそるべきものであった筈だし、また彼自身にとっては、変化に富む数々の事件を内蔵しているにちがいない。  安兵衛と内蔵助を、この赤穂の町で簡単に出合わせてしまうこともつまらないので、すでに紙上で御承知のごとく、二人を京都でむすびつけた。  はからずも、中津川祐見を京都出身の医者にしておいたことが、不自然なく二人をめぐり合わせたのである。   6高校生も義士に精通  旧赤穂城内へ入ると男女高校生の姿が多い。  これは旧本丸の御殿があったところに〈赤穂高校〉があるからだ。  校内東南の一隅には往時のままの天守台があって、ここにのぼると有名な塩田《えんでん》が展開しているのが見える。瀬戸内の海の彼方にのぞまれるのは小豆島ではないだろうか。  塩田にかこまれた城というのも、あまり例がないようだ。  しかし、ふりむいて本丸内を見ると、いかに観光案内書が、 「いま校門のあるあたり鋲扉《びようひ》きびしい本丸一の門の建ちしところ、いま校庭の西片南側のあたりは、かつて泉石の美をつくせしところ、いま生徒のはつらつと運動するあたり、さきには宏壮《こうそう》なる藩邸のありしところである」  と、美文調にうたっても幻滅をおぼえざるを得ない。  明治維新後の日本は、どうして、どこの城の中にも学校を建てたがったのであろう。  しかし、さすがは赤穂の高校生で、ぼくが二ノ丸の道を通りかかった少年に、 「堀部安兵衛の屋敷跡はどこ?」  わざと知らぬふりをしてきいてみたら、 「堀部は、ずっと江戸藩邸にいましたから赤穂に家はありません」  はっきりと、こたえた。  この城の大手門橋に立って、赤穂の町をながめるのが、ぼくは好きだ。  石垣や櫓《やぐら》や、蓮の浮いた濠の向こうに、低い山なみを背負った古めかしい城下町が横たわっている。  その町の道を、江戸での大変を知らせるべく到着した早《はや》駕籠《かご》が駆けて来そうに思えるほど、古格を存したながめである。ことに夕暮れどき、町に灯がともるころがもっともよく、町のほうから城へ向って進みながら大手門をながめるのもよろしい。  この旅では、帰りに赤穂から酒好きな船頭があやつる小舟に乗り、室津の港へ寄った。  いまはさびれつくしたこの港が、往古から栄え、その繁昌を明治維新直前まで保ちつづけていたとは、どうしても思えぬほどの荒廃ぶりだが、ぼくは、この港で、安兵衛と鳥羽又十郎を再会させるつもりだった。  波止場をのぞむ木村屋旅館という物さびた宿の一室で、宿の老婆がこしらえてくれたタコの酢のものなどで酒をのみながら、いろいろと二人のことを考えたものだが……帰京して執筆をつづけるうち、予定よりも早く、江戸|麹町《こうじまち》のそばや〈ひやくたん屋〉の前で、安兵衛は鳥羽又十郎に声をかけられてしまった。  これはたしか〈新春多事〉の章だったと思うのだが、溝口|修理《しゆり》邸内に住む義兄夫婦をたずねた安兵衛が、ふり出した雪の中を〈ひやくたん屋〉の前へかかる。  ——安兵衛も一度、ここで細井広沢と酒をのみ、そばを食べたことがあった——と、書いたときには、ぼくの頭の中には又十郎のまの字も浮かんではいなかったのに、  ——その前を通りかかったとき、ひやくたん屋の障子をあけて出て来た男が……と、ほとんど無意識のうちに書きすすめてしまい、いきなり、あの怪盗先生があらわれてしまった。  このように小説というものは書き手にとって、実にふしぎな生きものなのである。  かくて室津の港における二人の出合いは実現されないことになったが、赤穂で得たものは、これからの紙上へ徐々に吐き出して行くつもりである。 [#地付き](新潟日報・昭和四十一年六月三十日〜七月五日) [#改ページ]   現代新婚図  十日ほど前の夕暮れ近くになって、ぼくの若い友人の一人であるN君が訪ねて来た。  N君は、世界的に有名な某カメラ会社の宣伝部につとめており、三ヵ月ほど前に結婚をした。  新妻は、傍系会社の専務の次女である。 「さて、そろそろ夕めしだが、ぼくのところで食べては新婚早々の奥さんにわるいな」  ぼくがいうと、N君は満面を紅潮させ、 「いいんです。今夜は仕事だとことわってあります」 「それなら一緒に食べよう。何がいい? 鰻か、天ぷらか……」 「いえ、その……」 「何だい、遠慮することもあるまい」 「では、いいます。ぼく、あの……ナスの味噌汁と、たっぷりネギとカラシをそえた納豆と、焼海苔が食べたいな」 「お安い御用だが、そんなもの、毎日食ってるんだろ。第一、そりや朝めしのメニウだ」 「いいんです、食べたいんス。ほんとに食べたいんス」 「ぼくは、ほかのものにするよ」 「いいです、ぼくだけで——奥さん、すみません」 「いいんですよ、わけもないことだわ」  家人がこしらえたN君注文の夕飯を喰い終って、 「ああ……」  思わず、ためいきをもらしたN君の両眼は心なしか、うるんでいたようである。 「ああ、うまい。生き返った。ほんとに生き返った。ありがとう、奥さん……」  ぼくと家人は顔を見合せ、こんなにカンタンなものに、なぜ、そんなに感動するのか、と問うと、N君いわく、 「結婚以来、食べていないのです」  彼の新妻は朝から晩まで、彼女が習得したとかいうフランス料理の一点張りで、アパートの台所(兼)食堂には、朝からナイフとフォークとナプキンが並ぶといった寸法。白米は健康によくないというので配給もとらぬそうな。パンと玉子とスープと肉と、野菜といえば「ヌカミソは臭いからいや」てんで、サラダの一点張り。 「うまいんだかまずいんだか、わからん味がするんですよ」  と、N君はこぼしてこぼして、こぼしぬくのである。 「それじゃア君、一生うまいものは食えないぜ」 「ど、ど、どうしたらいいんでしょうか」 「きまってる。女房にいうんだ。たまには味噌汁《おつけ》とナットウをくわせろって……」 「それが、その……」  彼、口ごもった。今度の結婚については新妻の実家から、かなりの金が出ているということを、ぼくも、うすうすは知っていたが、 「一度、やって見ろよ。ぼくも結婚第一日目にやったんだから——」 「何をです?」 「めしの膳を引っくり返すんだ。こんなものは食えんと叫ぶんだ」 「え……?」 「びっくりするなよ。好きなものも食えずにはたらけるか。君は早死してしまうぞ。絶対にガンになるぞ。一生のことだ。思いきって、死《しに》もの狂いで、やって見ろよ」  沈思黙考の後、彼の顔に決意がひらめいた。 「わかりました」  と一|言《ごん》。すぐに帰って行ったが、七日もすると、ぼくはすっかり、このことを忘れてしまっていた。  八日目に、突然、N君が来訪した。ちょうど昼めしの時刻である。 「何を食うね?」 「みそ汁とナットウ……」 「またか……いったい、やったのかね。こんなもの食えんと食卓のものを引っくり返したのかね?」 「や、やりました」 「で、……?」 「なぐりました」 「そうか。えらい」 「いえ、ワイフが、ぼくをなぐりました、食卓の上の、サルビヤの花が生けてあった花瓶で……ぼく、二日も会社を休みました。ここのところが腫《は》れあがって、熱が出てしまったもんで……」  と、N君は泣き出しそうな笑いをムリにうかべて見せた。 [#地付き](小説倶楽部・昭和四十一年九月号)  [#改ページ]   二十五年ぶりの友  年来の友人たちとも、このごろは電話で声をきくのが精いっぱいのところで、数年前までは互いに飲み、食べ、語り、家庭を訪問し合っていたものだが、その余裕すら失われてしまいつつあるようだ。  これは、互いに気ぜわしく暮らしているというわけのものばかりではなく、人間四十をこえると、熱っぽいつきあいがめんどうになってくるのでもあろう。  そのくせ、家人に、 「カレー・ライスじゃなく、ライス・カレーをこしらえろ」  などといい、幼少のころに食した東京・下町の食物の味を再現させることに熱中したりし、そしてまた、そのころの友だちが、まことになつかしくなってきたり、十何年ぶりに、わが生誕の地をおとずれてみたりするものらしい。  戦前、ともに仕事をしていた仲間のひとりが、越後H市の花柳界で置屋の主人におさまっていることを知り、先日、新潟からの帰途H市へ立寄った。  彼の家は、すぐにわかった。  夕暮れ、玄関の格子戸《こうしど》をあけると、正面の部屋で、彼は独酌をたのしんでいた。 「三郎。おれだよ。わかるかい?」 「ひやア、ゆうれいじゃアねえのか。あんた、ほんとに波さんかい」 「なぜ、おれがゆうれいなんだ?」 「ガダルカナルで戦死したときいてたもの」  二十五年間の歳月は、一度にちぢまった。  二十五年前の二人の、そのときのままの心と心が通い合った。こういうことも、めずらしいことだ。  二階の小座敷で、さしつ、さされつしながら……。  うちの妓《こ》でね、波さん好みのがいるんだ。ほれ、京町T楼のふみえね、あんた好きだったやつ。あれにそっくり。アメリカ女優のほれ、ケイ・フランシスそっくり。あんた好きだったねえ、ケイ・フランシス。いま、もうじき帰ってくる。ま、いいから、まかせといて」  翌日の昼すぎ、彼と、でっぷり肥えた彼の細君に見送られてH駅へ……。 「ケイ・フランシスのやろう、W温泉へ客と遠出しやがって……電話一本で、さっさと行っちまうんだから、このごろの妓には泣かされるよ」 「ケイ・フランシスより、エドワード・ロビンソンと飲みあかしたほうがたのしかったよ」 「え……おれのことかい、ひでえなあ。ねえ、波さん。これから寒くなるけど、雪の越後へも来ておくれよ。たのむぜ、ね……」  こんな会話、いまの若者たちが読んだって、ちっともおもしろくはなかろう。 [#地付き](日本経済新聞・昭和四十一年九月二十八日・交遊抄) [#改ページ]   旧友たち  四十をこえると、むかしのことがやたらになつかしくなる故か、生まれてから戦災をうけるまで住み暮していた浅草へ出かけることが多くなった。  この頃では、ものを食べに行くのも浅草、映画を見るのも浅草になってしまった。  で、浅草というところ……。  あれだけひどい戦災をうけていながら、むかしの人びとが、むかしのままに戻《もど》って来て住みついている。  私の住んでいた町へ行くと、幼なじみやら小学校の同級生やらが、いまもあつまっており、旧友との交遊が復活されることになった。  みんなの話をきいてゆくうちに、私は四十をこえたばかりの、大正末期に生をうけた友人たちの、さまざまな〔不幸〕なるものを耳にする機会が多くなった。  不幸といっても、それは戦前の不幸とは全くおもむきを異にする。金がなくては一日も生きてゆけない東京であるから、金の苦労ではない。  それは、家庭における主《あるじ》の不幸とでもいったらよいのであろう。  親、妻、子供——それに自分を加えた家族構成の中で、 「まったく、なんのために生きているんだか、わからないよ」  と、友人たちはなげくのである。  自分の親と妻との間に入って、その何年にもわたるトラブルを見つめつづけ、手も足も出なくなっている友人。  妻の親との間が、もう十何年も割りきれなくて、絶えず忿懣《ふんまん》を内攻《ないこう》させ、ついに胃腸をやられて亡くなった友人。  ワイシャツでもズボンでも、浴衣《ゆかた》でも何でも、着るものを買ったときには、まっ先きに中学生の子供に着せてしまう妻をもつ友人。友人は、我子のお古《ふる》をちょうだいすることになるのだそうだ。 「いまの子の発育ぶりはすごいよ。ま、半年も待っていれば、こっちへまわってくるんだが……何かこう、父親の、夫の体面が傷つけられたような気がしてね。そりゃアさびしいもんだよ」  そのあげくに、 「君ンとこはいいな」  と、なる。 「池波ンとこは奥さんが三つも年上だろ。やっぱり、むかしの女だよ。ところがさ、われわれもう、五つ下の女を女房にしたら、もう違ってくる。七つ八つとなると、ぜんぜんもう……」  彼らの、もっともふかいなやみは、ヨメとシュウト、あるいはシュウトメの間に立っておろおろするばかりというケースが多い。  結婚して十五年以上を経ているわれわれだが、この問題ひとつを解決しかねて困りきっているのだ。  またしても、 「君ンとこはいいよ」  である。  なるほど、我家の女房と母親は仲よくやっている。  それは、たしかなことだが、私の家庭だって、はじめからうまくいったわけではないのだ。性格も体質(これは女の場合、重大なことなのだ)も、まるで違い、しかも気の強い二人の女が一つ家にくらすことになるのだから、うまくゆくことはめったにない。となれば、主人である自分が二人の女をあやつり、梶をとって同調させるところへもってゆかねばならない。 「やってみろよ」  と、私はいった。 「女は嫁に来ても実家を忘れないものだ。女房の親も自分の親と同じようにあつかい、めんどうを見てやるのさ。そうされてよろこばねえ女房はいないよ。したがって、今度はそのお返しが君らの親に返ってくる」 「ばかやろう」  と、友人たちは笑い出した。 「そんなところへ気がつくタマかよ、うちの女房が……」 「やってみなくては、わからねえだろ」 「やらなくても、わかってる」 「もう一つ、女たちを叱るときはすこしもエコヒイキがあってはいけないのさ。五分五分に叱る」 「叱る? だれが、だれを?」 「君らが、奥さんや親をさ」 「ばかなこというなよ、正ちゃん。そんなことしてみろ、ぶんなぐられる」 「だれに」 「女房にさ」  私が、むかしの武士たちが書きのこしておいてくれた書物によって得たものを実験してみて、成功した〔事実〕を、だれもみとめようとはしない。  そして、 「君は、子どもがいなくていいよな」  に、なってくる。 「ほしくても、こればかりは仕方がないよ」  子供を病気で失った友人の落胆《らくたん》ぶりが、あまりにも度をこしていたので、つよくはげましたら、 「君には、わかるもンか」  と、いわれたことがある。  そうかも知れない。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十一年)  [#改ページ]   人が住む町  久しぶりに谷中《やなか》に住む伯父夫婦を訪問したら、 「家の前を通る自動車の音で眠れないのだよ」  という。伯父の老顔は憔悴《しようすい》しきっていた。ぼくも少年のころ、この伯父の家で暮したことがあるけれども、そのころは江戸時代に建った民家もあり、寺も多く、ときどき追剥《おいは》ぎが出没したほどの、しずかな町であった。  上野の杜《もり》から谷中にかけての、東京でもっともひっそりとしていた町の細い道をトラックやタクシーが絶え間なく通る。一方通行でいて、その響音が地ひびきをたてて茶の間へつたわってくるのだ。  伯父の家の庭にも、もう小鳥が来なくなったというが、これは、ぼくの家でも同じことである。  我家の前に流れていた小川が暗渠《あんきよ》になり、いくらか道幅がひろがると、たちまちそこが自家用車の駐車場になってしまう。  ガレージもない人びとが争って自動車を買うのである。  東京の下町に生まれ育ち、町のざわめきが好きなぼくだが、このごろは、つくづく東京の町へ出歩くのが厭《いや》になった。  このごろ、映画見物や食事に出るとき、ぼくは、よく浅草へ出かける。むかし、この町に住んでいたころの繁栄を浅草は失ってしまい、 「さびれるばかりですよ」  と、土地の人びとはいうのだが、それは、銀座や新宿の車の洪水と喧噪《けんそう》にくらべるからで、いまの浅草のにぎわいぶりは、人がゆっくり歩き、ゆっくりと物を食べるために丁度《ちようど》よいほどのものだ。六区へ入れば自動車も通らぬし、人間のための町があり道がある。  浅草へ来ると、ホッとして人間なみに歩けるのである。  中央の繁栄から取残された結果が、人間にとってちょうど手ごろだというのは、まことに皮肉なことだ。これが現代日本の(近代化)ブーム(開発)ブームの実態なのである。  いま、千葉の発展ぶりはすさまじい。  全国的に進められている妙な(近代化)は地方の諸都市を見る見る変貌させているが。  千葉の山や海や町や道が、車のためでなく人間のためのものとして発展してほしいと思うのは、房総というところが好きなぼくだけであろうか。  千葉人独特の個性をもった町づくりや道づくりをぼくは願っている。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十一年)  [#改ページ]   正之と容保  これまでの会津の歴史は、人物は、〈小説の世界〉にとって〈不毛の地〉であったように思う。  現代文化の様相が、東京中心のジャーナリズムによって画一化され、それを〈実態〉だと思いこむことも奇妙なものだが、これはむかしからのことで、派手やかにうごく歴史の表層は、いつも京坂か江戸の地を中心にしてとらえられてきたのである。  人は、会津の地をはじめて踏むことによって、そこにつみかさねられた歴史の層に瞠目《どうもく》する。  なぜなら、会津藩の藩祖ともいうべき保科正之《ほしなまさゆき》がきずきあげた〈会津文化〉ともいうべきものは、徳川幕府草創のころの精神を、もっともよくつたえ、これを温存しつつ幕末に至った……ような気もするのだ。  保科正之については、既刊の〈若松史〉にくわしく記述されてあるので、ここにのべるまでもあるまい。  彼が、三代家光、四代家綱の二将軍を補佐し、幕府政治をゆるぎないものとするべく精力的な活動を見せたことは、よく知られている。  正之が、幕府老臣たちと共に改訂した〈武家|法度《はつと》〉二十一ヵ条はむろん徳川繁栄のためのものであるけれども、行文にはおのずからなる〈きびしさ〉がみなぎり、幕府も大名も歩調をそろえ、質朴厳粛な政治をおこなおうという〈意気込み〉が看取される。  以来、歳月を経るにつれ、肝心の将軍家や幕府そのものが、変転する時流におぼれたり押し流されたりして、つまらぬものになって行ったのは周知のことだ。  ところが会津には、いわゆる藩祖以来の伝統というものがきびしく継承され、幕末に他家(美濃・高須の松平家)から入った藩主・松平|容保《かたもり》によって開花した。この開花が維新戦争によって悲劇的結末を見たことは、まことに皮肉なことだが、今度の〈市史〉が、当時の会津藩をどのようにあつかうか、私はいま非常な興味をもって待っているのだ。  これは保科正之のことだが……。  謹厳実直な二代将軍秀忠は、徳川累代の将軍のうち、もっとも女色には縁遠かった人物だが、夫人の徳子(信長の妹・お市の方の三女。つまり淀君の妹)の目をぬすみ、ただ一人の側室に生ませたのが正之である。  ところが、正之は父将軍にくらべたら、女性関係もゆたかで、正妻・菊子のほかに、後妻・お万の方、側室三人をもち、十四人の子女をもうけたという。もっとも、他の大名や将軍たちの女色にくらべたら、むしろ謹厚《きんこう》な方であったかも知れない。  寛文の七聖人と世にうたわれたほどの正之に、こうした一面があったことは、何か微笑をさそわれるものがある。  正之が不幸であったのは、先妻の死後に迎えた後妻お万の方が、あまりかんばしくない女性だったからだ。お万は、京の上賀茂神社の社家のむすめで、はじめは側室だったものが、先夫人の死去によって正室となったもので、「このことだけはわしが不覚であった」と、後年の正之を嘆息せしめたといわれる。  お万の方の虚栄と嫉妬は非常なもので、正夫人の座についてから急激に露骨なものとなったようだ。  自分が生んだ三男の正経は、正之の後をつぎ二代目の会津藩主になることが決定しているのだから、何もいうべきことはないのだがことごとに神経をとがらせてやまない。  正之の側室の一人、おしほの方が生んだ女子(お松)が加賀の前田家へ嫁入りするとき、お万は、このお松を毒殺しようとはかった。理由は、といえば、自分の生んだ女子(お春)が三十万石の上杉家へ嫁したのに、側室が生んだお松は百万石の前田家へ行くのはけしからぬ、ということでもあったのだろう。  この毒殺は失敗に終ったばかりか、皮肉にも自分のむすめ(上杉侯夫人)が間違えて毒をのんでしまい、大変なさわぎとなったようである。  この騒動について、くわしく書く余裕はないが……。こうした〈内幕〉をのぞくにつけ、私は保科正之という人物が好きになるばかりだ。藩祖の正之と最後の藩主・松平容保、この二人の〈会津の殿さま〉は、ぜひ書いてみたい。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十一年)  [#改ページ]   鹿児島  はじめて、鹿児島を訪れてから、もう十年にもなるだろうか……。  少年のころから旅は好きで、また、その機会にめぐまれていたから、東京そだちの人間としては、これで日本国中、かなりまわった方であろう。  しかし、九州だけはそのときまで、長崎、福岡、別府の線から南は知らなかった。  そのころ、ぼくは芝居の脚本と演出で暮しており、新国劇の依頼で桐野利秋《きりのとしあき》を書くことになった。  桐野はいうまでもなく、日本陸軍の初代少将であり、維新の動乱には「人斬り半次郎」の異名をとった、かの中村半次郎である。  桐野を演ずることは、新国劇の辰巳柳太郎の宿願であった。  それだけに、 「一度、鹿児島へ行ってしらべて来てくれよ」  と、熱心にいう。  それはのぞむところであったので、昭和三十三年の十二月に入るとすぐに、ぼくは鹿児島へ飛び立った。  戦後、飛行機に乗ったのも、このときがはじめてである。  大阪から宮崎へ——宮崎で一度着陸した機は、無風快晴の空を、|まっしぐら《ヽヽヽヽヽ》という感じで一気に鹿児島へ飛ぶ。  その後も二度ほど空路で鹿児島へ入ったけれども、宮崎から舞い上がった空の下へ、たちまち高千穂の峰々が浮き出して来、これを擦《す》りぬけるようにして飛ぶ機の行手には、徐々に錦江湾がひろがってくる、その景観のすばらしさには息をのむ。  さらに機体は、桜島の山腹を飛びぬけ、錦江湾の真上を鹿児島・鴨池へ着陸をする。  紺碧の空と、堂々たる火山の偉容と、鉛色の海と白い雲にかこまれた薩摩の風光の豪快な景観の中に降り立ったとき、そのころ悩んでいた痔病の激痛が、ぬぐい去ったように消えていたことを、いまも思い出す。  ぼくは外套《がいとう》をぬぎ捨てた。  このときは五日ほど滞在をした。  宿は、西郷と薩軍がたてこもった城山・岩崎谷に面した「岩崎谷荘」で、女中さんの接待の親身なることおどろくばかり。以来、鹿児島へは四度も行っているが、どの宿へ泊っても女中さんたちのサーヴィスに失望したことがない。この点、おそらく日本屈指の土地柄であろうとほめておきたい。  このときは、日中に取材し、夜は鹿児島の老妓たちばかり三人ほど来てもらい、鹿児島弁をならった。  小説の場合でも、舞台脚本の場合でも、国|なまり《ヽヽヽ》というものは「忠実」に使用すると、すこぶる興味を殺《そ》ぐ。その土地の人ならおもしろかろうが、他国のものがきいても耳ざわりなだけだ。  ちかごろ、同人雑誌などの時代小説に、こうした国なまりを|下手に《ヽヽヽ》つかう武士だの大名だのが出てくるのを見かけるが、まことに効果半減する。  国|なまり《ヽヽヽ》には作者の創意が大いに加味されねばなるまい。  さて……。  城山から岩崎谷にかけては「西南戦争」のイメージが、もっとも高潮すべきところで、山頂から桜島をながめ、さらに下って西郷隆盛が起居した洞穴の前を岩崎谷荘の前をすぎて、ややすすむと、西郷が別府|晋介《しんすけ》に命じて自分の首を討たせた「最後の地」へ出る。  ここまで来ると西郷は、弾丸を股と腹にうけて坐りこんでしまい、これを見た別府が、 「先生。ここで|ゆわごわんすめいか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!?」  と、問いかけた場所だ。  西郷は、 「うん。よか」  淡々とうなずき、首をさしのべたという。  ここは岩崎谷の入口にあたるわけで、少しはなれた小高いところに、西郷以下薩軍の将兵の墓所がある。すなわち「浄光明寺」だ。  岩崎谷荘の、ぼくが泊った部屋からは、西郷の|それ《ヽヽ》を囲むようにして林立する浄光明寺の墓が、はっきりとのぞまれ、その彼方に海、そして桜島……と朝に夕に、ながめつくして舞台面の構成を練ったことを思い出す。  舞台では、伊藤壽一のデザインで、西郷が死ぬところを出して、ここがまたすばらしい舞台の「絵」となってくれたのが、その場面から最後の桐野戦死の城山へうつる舞台転換に時間がかかりすぎ、やむなく初日から七日目に、これをカットした。そのときの残念さを、当時、演出助手をつとめてくれたI君と会うたびによく話し合うのである。  現医大病院になっている「私学校」跡は旧藩時代の厩屋《うまや》があったところで、この辺、もちろん旧鶴丸城内である。  甲突川《こうつきがわ》の北から東の岸辺には、西郷、大久保をはじめ、大山、井上、東郷など薩摩出身の軍人、政治家たちの誕生地が多い。  西郷の誕生地は小公園になってい、石碑が残るのみだが、城山つづきの丘の上には、明治新政府を辞して帰郷した西郷が妻子と共に暮していた質素な家が旧態をとどめて残在している。  見るなら、いまのうちだ。  市中を、錦江湾に沿って北へ進むと、かの磯の旧島津家別邸がある。案内書に「林巒《りんらん》後にめぐり、海水前に抱き、春を賞すれば嵐霊香をひるがえし、夏は諸峰の緑翆《りよくすい》涼風を送り来りて、白帆|黒烟《こくえん》ともに我が池水の物たるの観あり」と、美文をつらねてあるが、決して誇張《こちよう》ではない。  その天然の風景美をほしいままにしているこの屋敷が、いかにもお国ぶりのうかがえる清楚なのが反って印象的である。  島津|斉彬《なりあきら》の事業をしめす、名高い「集成館」も、邸内にあって、十年前には、あたりの風物も旧態そのままということであったが、のちに、このあたりへ遊園地が出来、さらにロープ・ウエイが完成し、せっかくの歴史的景観をぶちこわしてしまったのは、現代の、どこの都市にも見られる「流行」なのだから、他国者のわれわれにどうしようもない。  こうした市内の旧蹟を訪れるには、タクシーの運転手なり宿の人なりの案内で事足りるが、桐野利秋が生まれた吉野郷・実方《さねかた》の村へ行くとなると、鹿児島のタクシーでも、 「そげなところ、行ったことありません」  などという。  市内から約一里。道は山へ分け入り、上りとなる。  太鼓橋とよぶ石橋をわたると、実方の村で、バス停留所前の雑貨屋で、蜜柑ジュースなるものを売っている。この薩摩産のジュースは一本十三円。ところが四年後に、ここを訪れたときも十三円であった。物価高騰の世にめずらしいことで、薩摩国・吉野村・実方の雑貨屋のジュースは平然と十三円の価格を守り通していたものだったが、いまはどうなっているだろうか……。  この雑貨屋の横手の細道をしばらく進むや、豁然《かつぜん》として景観がひろがる。  道は断崖によって切れ、眼前に、海をへだてた桜島の偉容が、おどろくほどの近さで眼に飛びこんでくる。  桐野利秋は、ここに生まれた。  左手の小道の上の、旧居跡に、石碑が建っている。  ここには家も何もないが、一軒先の海を見下すところに、むかし、桐野なども、こうした家に生まれたであろうことを想わせる古い民家が残存しており、ぼくは、これを何枚もカメラにおさめ、舞台にもつかい、のちに小説「人斬り半次郎」を書いたときも参考にしたものだ。 「人斬り半次郎」は、ぼくが直木賞をもらって間もなく書いた長篇小説で、このときは、もっと丹念に、吉野郷一帯を踏査した。  桐野の生家の下の谷間の村には、彼の従弟であり、西郷を介錯《かいしやく》した別府晋介の誕生地もある。  このあたりは、鹿児島市を背後から抱きしめているような吉野の高原地帯で、帯迫《おびさこ》、雀ケ宮など、旧藩時代の歴史にもよく出てくる村々が点在しており、さらに上ると、桐野が下野してから百姓をして暮した宇源谷の旧蹟もあるし西郷が金を出して私学校の生徒に開墾をさせた寺山の高原もある。  この寺山の断崖に立つと、はるか下に磯の旧島津家別邸が明快に俯瞰《ふかん》される。  そして、海……。  そして、またも火を吐く桜島……。  なるほど、鹿児島の人びとと桜島とは切っても切れぬ。  そして、この火山は日本の火山の中でも最も異色ある景観の中に呼吸をしている。  小説では例の「薩英戦争」を書いたので、薩摩半島の突端、長崎鼻から小舟をやとい、鹿児島湾(錦江湾)へ外海から入って行って見た。  山川、指宿《いぶすき》とすぎ、湾の彼方に桜島と鹿児島市が次第に接近して来る流動的風景もよかった。  こっちは、鹿児島へ攻めこむイギリス海軍のつもりになって見ていたのである。 [#地付き](大衆文学研究・第十九号・昭和四十二年四月十五日発行) [#改ページ]   僕は食いしん坊 (某月某日)  旅へ出てから三日目。大阪市中の取材を終え、予定のごとく淡路町の〔丸治〕へK氏とカメラ氏をつれて行く。樽酒で滝川ドウフ。スズキのあらい、湯葉わん、ハモのツケヤキなど、依然《いぜん》〔丸治〕は健在なり。まんぞくして思うさま食べまくった。夜中ホテルにて、明日食べるものを案じつつ、輾転《てんてん》ねむれず。 (某月某日)  仕事の一行と別れる。京へ出て〔ツボサカ〕のステーキを食べ、好きな〔松ずし〕へ寄って弁当をこしらえてもらい帰京するつもりで、ふっと御堂筋・難波の〔サンライズ〕へよったら、果して新歌舞伎座出演中の辰巳柳太郎おやじが朝のコーヒーをのみにあらわれる。ああ、十年前がよみがえったような大阪の朝なり。おやじ「晩めしをつきあえ。もう一日泊れ」と、せまる。これで食うものの計画がくずれる。心斎橋で散髪しつつ、夜食べるものへ合せるため何を何時ごろ食べたらよいかに苦悶する。ようやく〔みのや〕のちらしずしにきめ、午後二時に腹中へ……そして〔モダン・ミリー〕を見物。  夜十時。おやじさんと※(まるまん)の魚すき。二人で六人前食った。万事うまく行った。  夜半、明日の昼ごろ帰宅し、家で食べるものを考えつつ苦慮《くりよ》する。男の〔なやみ〕はつきぬものなり。やっと決め、東京へ電話し、家人に〔イリコのきゅうりもみ〕と〔ナスの煮もの〕と〔トウフの味噌汁〕をあつらえ、ようやく、こころ安らかにねむる。 [#地付き](週刊文春・昭和四十二年八月七日号・エプロンのポケット) [#改ページ]   子どもと本屋さん  テレビというものが人間の暮しの中へ完全に溶けこんでから、人間は本を読まなくなった、などと、一時はよくいわれたことがあった。  わが家の老いた母親も、むかしから小説を読むことが大好きで、ひまさえあれば本に向っていたものだが……。「このごろは、とてもとても本なんぞ読んじゃアいられない」  と、いう。  朝から夜まで、コタツの前のテレビにしがみつき、ごひいき番組を追うのに毎日夢中なのである。  けれども……。  依然《いぜん》、本屋さんは繁昌をしている。  出版社も多忙をきわめている。  おびただしく、次から次へと発売される書物が目まぐるしい回転のうちに、出ては消え、消えては出る。  子供たちの雑誌や書物も多彩をきわめている。  本のみか、いまの子供たちは、ぼくらの子供のころとくらべて、いかに多彩な生活にめぐまれていることか……。  それが、当然のものとなったのである。  むかし、少年倶楽部の発売日を十日も前から待ちかまえていて、 「今日は出るぞ」  というと、友だち同士、朝早くから本屋さんの店頭に列をつくって待機した思い出が、いまもまざまざとあたまに、心にのこっている。  一冊五十銭の、その雑誌代を母親から出してもらうことが、いかにすばらしいことだったか……。  別に売り切れるから列をつくるというのではない。  早く見たくて見たくて、こらえきれないからだ。  やがて……。  雑誌が本屋にとどき、本屋の主人が、にこにこと、 「お待ち遠さん。さ、来たよ」  声をかけるや、ぼくらは歓声をあげて店頭へなだれこんだものだ。  インクの匂いのする一ページ一ページを、ぼくらは胸をときめかせながら、めくってゆく。  そして、翌月の発売日を、その日から待ちかねつつ、一冊の雑誌を読みきるのが惜しいような気持ちで、一つ一つ読んでゆくのだった。  食卓に並んだものの中で、いちばん好きな食べ物を、ゆっくりと最後にたのしむように、一冊の中の、もっとも愛読している読物をなめまわすように最後に読み終る。  いまの子供たちは、いったい、どんな気持ちで本を買うのであろうか……。 [#地付き](学研販売ジャーナル・昭和四十二年十一号)  [#改ページ]   美味求真  私にとっての美味とは……。  その食べ物の〔価格〕と、食べる場所の〔気分〕と、食べるときのわが体調によって左右される。小説を書いている〔居職《いじよく》〕の生活なのだから、この三点については充分に気をくばり、日々をたのしくするための努力をおこたらぬつもりだ。人間は|ひっきょう《ヽヽヽヽヽ》、食べてねむることにつきる。むずかしい論議はさておいて、この二重大事がスムーズにおこなわれればそれでよろしい。私は過去十五年にわたり、毎日、口へ入れた食物を日記にかいてある。たとえば昨日は〔昼・ナスの味噌汁、アジのひもの、冷飯——夕・さよりとウドの重ねレモン、黒鯛しおやき、鳥そぼろめし——深夜・もりそば〕と記してあるように、この中で美味であったものへは朱印をつけてあるから、家人は四季それぞれの日記帳をひもとけば亭主に食わせるものを案じなやむことがない。たまには「今日は何々にしろ」と命ずることもあるが、これでは膳へ向かう期待がうすれてしまい、せっかくのものの味が半減することがままあるようだ。  とはいえ、私の舌などはいいかげんなもので、とてもとても食物の味について語るべき資格はない。東京の下町育ちで食は荒いのである。  外でもよく食べるが、よく〔食べものや案内〕のごときものに絶賛をうけている店が〔家庭料理〕よりも劣る味しかしない場合が多いのは、私だけのおもいちがいであろうか……。  この夏、久しぶりに下阪し、淡路町の〔丸治〕へ寄ったが十年前に、はじめてここへ入って食べたときから少しも変らぬ味と客への誠意には感動した。同じように、いつ行って食べても満足するのは長野市の常宿〔五明館〕の朝夕の食事であって、調理、接待にこもる〔誠意〕は大金を投じて食べる名店の、どんな料理にも引けはとらない。 [#地付き](小説新潮・昭和四十二年十二月号)  [#改ページ]   私と犬  新国劇の辰巳柳太郎の犬好きは有名なもので、むかし、私が新国劇の芝居を書いていたころ、二人して大阪道頓堀を歩いていると、老人の乞食が雑種の小さな犬をつれて物乞《ものご》いをしているのに出会ったことがある。  辰巳氏もぼくも犬好きだから、その犬の前に立ってながめていると、通りがかりの若い女の二人づれが、 「わあ汚ならしい犬やわ」 「ヘンな犬」  などと、大声にいいかわしながら通りすぎようとしたのを、辰巳氏が腕をつかまえ、 「バカ。この犬よりお前のほうがよっぽど汚なくて、ヘンな動物だ」  とやったものだ。  女どもは、びっくりして逃げ去ったが、辰巳氏の怒りは、かなり後まで尾を引いていて、 「ああいう、つまり犬やなんかの動物がきらいな女は、ダメだ。女房にしても恋人にしてもダメだ」と、いう。  愛犬が死ぬと、その写真を楽屋の鏡台の前において、扮装をしながら、それをながめ、ぽろぽろと涙をこぼしていたのを見たことがある。  これにくらべると、ぼくなどは我家の飼犬のクマに対してはすべて家人まかせで、何もしてやらない。秋田と雑種のマジリの愚鈍な甘ったれ犬で取柄《とりえ》も何もないようにおもわれるのだが……。  考えてみると、何かの役には立っているのではないか。  大きな犬で、見知らぬ人が庭へ入って来れば大声でほえる。これだけで、じゅうぶんに盗難よけになっているのかも知れない。  十年もたって、次第に元気がなくなり、よぼよぼと家内に引っぱられて歩いているのを見ると、自分が年をとったことをつくづくおもい知らされることがある。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十二年)  [#改ページ]   一番おもしろかった話「香典うなぎ」  むかし、新国劇の芝居の脚本を書きはじめたころ、当時、ぼくは役所づとめをしていたので年に二度ほど、自分の書いたものが舞台にかかるとき、ずいぶんと、わがままな「苦労」をしたものだ。  ことに演出を兼ねるようになってからは、どうしても、芝居の稽古に立ちあわなくてはならない。  一日か二日ならともかく……。そのころは、前の月に劇団が出演している大阪か名古屋へ出かけて行き、終演後にゆっくりと一週間も稽古をし、ちゃんと仕上ったものを東京の舞台にかけるというのが常態であったからどうしても、それだけの日数を休まなくてはならぬ。  むろん賜暇《しか》は年に二十日ほどあるけれども、なかなか休みにくいものだ。  こういうとき……。  あらかじめ、劇団の文芸部員にたのんでおき、大阪なら大阪、名古屋なら名古屋から、 「オバ(又はオジ)シス。イソギオイデコフ」  の電報をうたせる。  これがとどくと、家内か母親が「にせ電報」を持って役所へ駈けて来る。  この電報を上司へ見せると、一も二もなかった。 「大変だね。すぐ帰り給え」  と、いってくれる。 「はい。では……」  そそくさと役所を飛び出すのだが、家内も、 「あんな、いやなことはなかった」  と、いまだにいう。  役所というものは転勤が多いもので、伯父と伯母を何人も死なせて、わからなかった。  いつのことであったか、例によって大阪での稽古に行くため電報をつかったところ、 「じゃあ、一寸待って……」  係長が、係員一同にはなし、たちまちに香典があつまってしまったものだ。  これには弱った。 「こんなもの、いりません」 「何を遠慮する。いいじゃないか」 「しかし、伯母なんですから何も、こんなに……」 「いいから、とっておいてくれ給え」  まさかウソですともいえない。 「さあ、何をしてるんだ、汽車の時間におくれるぞ」  と、係長。 「では、いただきます」  もらってしまった。  こんなに、バツのわるいおもいをしたことはない。  後年、役所をやめてから大分たって係長に会ったとき、このはなしをすると、係長は、 「ウハ、ハハ……おもしろい、おもしろい」  と、うれしがってくれたのでホッとしたものだ。  この後、香典をくれた係員一同に、鰻丼をおごったのは、その香典をつかったわけだが、 「すまないな、こんな御馳走になって……わるいなあ」  同僚が、しきりにありがたがってくれたものである。これまたバツがわるい。 「いや、すまないのは、こっちのほうだ」 「え……?」 「いやなに、こっちのことさ。さ、うんと食べておくんなさい」  あれから、もう十五年にもなる。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十二年)  [#改ページ]   隅田川  この春、仕事がかさなり、好きな旅へも出られず、映画を見る時間もなく、机の前にかじりついているだけの毎日がつづき、気分が重くて仕方がないので、(レコードでもきいてみるか……)  おもいついて、小さなステレオを買った。  戦前、手まわしの蓄音機で、いそがしくレコードを引っくり返しながらたのしんだことはあるが、LP二十数分の演奏が手もかけず気もつかわずにきけるということは、実に便利なものだ。 (なぜ、もっと早くおもいつかなかったのだろう……)  さあ、もうたのしくて仕方がない。  邦楽、洋楽、落語から浪花節まで、朝起きてレコードをきくのを待ちかねることになった。  先ごろ、友人の片岡長子さんが、アメリカ女性のセリナ・マネットさんをつれて来た。  セリナ嬢は、日本文学を研究しようというので、留学まる一年目になる。むろん、それ以前に来日したことはない二十二歳のお嬢さんである。  片岡さんの通訳つきで、私が仕事にしている時代小説のはなしなどをしていたが、そのうちにレコードのはなしになったので、私は、ふとおもいつき、 「日本の代表的な音楽をきかせましょうか?」  というと、セリナ嬢、大よろこびだ。  そこで……。  三味線、清元梅吉、浄瑠璃、清元梅寿太夫ほかの演奏になる〔隅田川〕をかけた。  清元〔隅田川〕は、吉田の梅若丸の伝説をとったもので、人さらいにさらわれたわが子の梅若丸をたずね、はるばる京の都から下って来た狂女が隅田川のほとりにかかる……渡し舟にのり、舟長《ふなおさ》の口から、病死したわが子の塚の由来をきいて泣き伏す、という哀切な曲である。  自分のレコードで、この曲を何度もきいていると……ことに三味線の作曲が、|しろうと《ヽヽヽヽ》の私にも何ともいえずうまくつけられているのにおどろく。隅田川をわたる渡し舟と、川水のながれと、川面に飛び交う都鳥と……そうした情景が、狂女と舟長の心象へ端的に、しかも深くむすびついているさまが、完璧《かんぺき》に表現されている。  さて……。  セリナ嬢は退屈することもなく、この一曲をきき終えたので、 「これをきいて、何を感じられましたか?」  と、問うや、セリナ嬢はすぐさま、 「わたくしは、三歳で亡くなった、わたくしの妹をおもい出しました。この曲は、親……母《マザー》が、亡くなったわが子をしのぶ曲ではありませんか?」  と答えたのには、私ども夫婦ばかりか片岡さんも瞠目《どうもく》したのであった。  とはいえ、私の感動は別のもので、それは、むかし、それも大正年間に、長唄〔筑摩川〕の三味線をきいたドイツ人医師夫婦が口をそろえ、 「この曲は、水のながれを表現していて、実にすばらしい」  と、讃嘆《さんたん》したはなしを或《あ》る先輩からきいたことがあったし、さらに数年前、若い友人の島田君が、上京した老母をアパートに泊めた夜のことを語ってくれたのを、まだおぼえているからである。  それは、島田君が何気なく、故ナット・キング・コールの歌唱による「スター・ダスト」のレコードをかけたところ、きき終えた老母が、 「この歌をきいていると、空に散らばっているお星さまが目に見えるようだ」  と、いったそうである。 「スター・ダスト」いうまでもなく「星くず」の意である。  セリナ嬢にしても、この田舎の老母にしても、現代日毎に失われつつある人間の勘——感受性をゆたかにもった幸福な人たちであるとおもう。  理論、理屈よりも〔勘〕のほうが先行する時代には、もうならぬであろう、と、おもわざるを得ない現代、そして未来になってしまったようだが……。  ところで……。  最近、買ったレコードの中で、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングが、かけ合いで唄う「サマー・タイム」をかけていると、英語の歌詞はわからぬながらも、われ知らず、強い感動におそわれ泪《なみだ》がにじんでくる。ふしぎだ。  このガーシュインが作曲した「ポギイとベス」の中の、やさしく哀しい「子守唄」は、まさに名曲であるけれども、別にサラ・ヴォーンの「サマー・タイム」をきいても、 (うまいな……)  と思いはしても、感動はうすい。  それでいて、サラのモダン演唱のほうが|凝っている《ヽヽヽヽヽ》のだ。  エラとルイのほうが、素直に飾り気なく唄っていて、しかも歌のこころに肉迫をしているからなのだろう。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十二年)  [#改ページ]   「彰義隊——上野戦争から五稜廓まで」木下宗一著 「上野戦争から五稜廓まで」と副題にもあるように、その間の維新戦争をパノラミックに記述した小冊子であるが、簡明に当時の情況を展望することが出来るのは、月日、時間を追って記述を整理してあるからだろう。  といっても、この種の仕事はなまなかではない筈《はず》だが、俗説、実説の取捨選択が著者の目によって、かなり整然と行われている。  著者はジャーナリストとしての経歴も古く、それだけに老人らしい「かわいた目」で人物や事件を観察し表現していることがこの著書の、もっともすぐれた点であろう。  なまなかな史書による再現よりも読者は豊富なイメージをもって混乱の世相を見ることが可能だ。  丹念で手びろい材料の蒐集によって、江戸へ進駐した勤王諸藩の生態が、さりげない日常のエピソードに、まざまざと看取される。  たとえば——。  官軍といえども軍資金欠乏で、ろくなものも食べられず、江戸城の濠《ほり》をさらってコイやフナを釣りあげ栄養源にしたりする話が、その背景となる時代の流れと共に効果的に組みわけられているからだ。  文章にする以前に、著者はかなりの苦心を構成についやしたと見てよいし、それだけに、邪魔な物は一つもない。  だが、たとえば鳥羽伏見の戦で、近藤勇が肩に銃弾をうけた、などという間違い(近藤負傷は戦争が始まる前、旧同志に襲われたもの)もあって、この種の著書は、こうした一つの間違いが興をそぐことにもなるから、再版の折には訂正ありたいと思う。近藤重傷の一件は、かなり知られていることだからだ。  挿入の地図、写真など、すべて適切であって、たのしい。 [#地付き](スクラップブック・新聞・昭和四十二年)  [#改ページ]   かしずかれる亭主の幸せ  未知の人との交際がはじまると、きまって、 「お宅、お子さんは?」と、くる。「いません」「そりゃ、おさびしいでしょう」  これが、きまり文句である。 「別に、さびしくはありませんけれどね」  こたえると、妙な顔をする。  どうも、こっちの方で、妙な顔をする人が妙な人に思えてくる。  私の場合、結婚して二十年にもなろうとするが、子が生まれなくて、さびしいと思うような暇《いとま》もなかったように思える。 「あっ!」という間に二十年がすぎてしまった感じだ。  結婚して数年は、家内も仕事をもっていたけれども、私が役所づとめを辞《や》めて物書きの生活に入るようになったとき、同時に辞めさせてしまった。以来、さいわいに食べるには困らぬが、家内の毎日のいそがしさは相当なもので、子がなくてさびしいと考える暇もないようである。  来客の接待から家事、電話の応対……。さらに、亭主は居職《いじよく》であるから、朝から夜まで家にいて、うるさいことばかりいう。  階段を上り下りするだけでも、四十を半ば越えた家内には、よい運動にもなるだろうが、重労働でもある。  先日も、子のない夫婦が別れるとか離れないとかもめているテレビドラマを、たてつづけに見ると、 「相も変わらず、同じようなものをやっているのだなあ」と、うんざりしてくる。  子のない夫婦というもののさびしさから、夫婦仲がうまくゆかぬという例はいくらもあるのだろうが、同時に、子のある夫婦よりも仲よくすごしているという例も同率《どうりつ》なのである。  女房は亭主ひとりにかかり切りになるので、亭主たるものは大いに満足して世話をやかせることができるからだろう。  夫婦というものは三年から五年もたつと〔肉親〕同様になってくる。恋愛的感情というものが消えるかわり、肉親になってしまい、自分の体の一部となってしまう。  まして、妻の実家と自分の実家とがスムーズに交流し、その間がふかくなってゆくにつれ、それは何層倍のものとなるから、離婚などということはありえなくなる。  むろん、ここまでには双方の我《わ》がままが出て、つまらぬことが原因のトラブルも起きてくるわけだが、いまの若い人たちは、そこのところが、どうも乗り切れないらしい。離婚は、たしかに増えている。  私の場合など、居職といっても、仕事の性質が性質だけに、二十年の間、夫婦の身辺には数え切れぬほどの変化があり、私ども夫婦は、こうした変化に応じてゆくだけで精いっぱいというところであった。  むろん、夫婦ならば子ができるのが正常であるけれども、子がうまれぬからといって「さびしい」とか「こまる」とかいって、離婚さわぎなどを起こすのは余りにも大人げなさすぎる。  他の理由があれば別のことだが、単にそれだけの理由で、しかも男のほうから、 「別れよう」  などといい出すのは、新しい女性との生活を夢みている場合が多いのではないか。  男とは、そういう生きものなのだ。  さらに、もう一つ。  近ごろの女性——主婦は、やたらめったに、「子ども子ども」とさわぐくせに、老人のことは考えない。それでは、子を生んだ甲斐《かい》が全くあるまいとおもわれる。 [#地付き](婦人生活・昭和四十三年三月号)  [#改ページ]   久しぶりに……  以前には、新国劇の芝居をいくつも書いていたものだが、直木賞をもらってからは〔小説〕が本業になってしまった。  この明治座で、尾上松緑奮斗公演のために、子母澤寛原作〔おとこ鷹〕および井上靖原作〔風林火山〕の二つを脚色・演出してから、もう五、六年もたってしまったろうか……。  そのころはまだ、少年のおもかげが濃かった新之助、辰之助、菊之助の三君が立派に成長し、いまは歌舞伎のホープとなったわけだが、この〔三之助〕がそろう〔出し物〕として〔夜討曾我《ようちそが》〕が企画され、その脚本と演出の仕事が、私にまわってきた。  眠っている子をおこされたようなものだが、私には、その企画が非常におもしろく感じられ、ついつい引きうけてしまった。  曾我兄弟の敵討《かたきう》ちは、日本の仇討ち史の上でも、もっとも古いもので、この事件の背景には、周知のごとき源氏と平家の戦争と、その政権の交替がある。  武士の世界における敵討ちというものは、むろん単なる復讐ではないことが、今度の舞台を見ていただければ、おわかりになるとおもう。  曾我兄弟のころは、まだ制度化してはいなかったが、江戸時代になると敵討ちは法律の代行として、世にみとめられた。  そこのちがいが、この鎌倉時代の曾我の夜討ちに出ていれば、作者としてこの上ないよろこびである。  新之助さんの父、亡き団十郎氏とは、一度、私のラジオドラマに出てもらったことがある。それが縁となり、 「そのうちに一緒《いつしよ》に何かやりましょう」  と、いい合ううち、団十郎氏は急逝された。  私は、生前の団十郎氏の人柄が大好きであった。  そうしたこともあって、私には新之助さんの舞台が、いつも気にかかる。  まだ稽古には入らぬが……曾我の五郎役の真剣な演技を、いまからたのしみにしているのだ。 [#地付き](明治座再開演十周年記念公演プログラム・昭和四十三年三月) [#改ページ]   討つもの討たれるもの   ——敵討ちについて——  江戸時代とよばれる封建の世は、その文字がしめしているように、天皇の公領以外の日本の封土を諸大名にわけあたえ、諸大名はまたそれぞれに、領有するわが封土をおさめた。  そして、この上に〔徳川幕府〕という日本全体をおさめる政権が存在したのである。  で……。  したがって諸大名は風土・地形・季節に適応した政治をおこなって領国をおさめ、ここに日本は、北から南にいたる諸国に、さまざまな〔封建文化〕を生むにいたった。  現代人は「日本には、むかしから国境がなかった」などというが、とんでもないことで、A大名の領国とB大名の領国とでは、もう別の国となるのである。せまい日本全土に無数の国境があったといってよい。  つまり、A領内で殺人を犯しても、B領内に逃げこんでしまえば、すでにそこはA領内をおさめるA大名の法律も政治も、ちからをうしなってしまう。  敵討《かたきう》ちの制度も、ここに生まれた。  殺された者の肉親が犯人を追って行き、直接に罰を加えるのである。  これが武士であった場合は、自分の殿さまに一応はヒマをもらい、浪人の身となって敵を追いかけることになる。つまり、他国において、どのようなことがおころうとも、自分の殿さまに〔めいわく〕はかけぬ、という立場をとるわけだ。  むろん、正当の敵討ちであれば、殿さまから全国共通の〔敵討ち免許状〕が下付《かふ》されるし、幕府へも届出がある。  いえば敵討ちは、一種の制度としてみとめられた復讐《ふくしゆう》のことで、現代人から見ると野蛮《やばん》きわまることに見えようが、しかし、復讐にかける人間の情熱ほど底ふかく、執拗《しつよう》なものはない。この点は現代においても変ることはあるまい。  ことに、武士の場合、敵を討って帰国しなければ、家もつぶれ、自分は一生、路頭に迷わねばならぬから、必死で敵を追いもとめる。  敵のほうも、必死に逃げる。  だが中には、 「よし、返り討ちにしてやる!」  とばかり、討たれるほうが討つほうを待ちかまえていることもある。  若いころに敵討ちの旅へ出て、首尾よく敵を討ったときは七十をこえた老人になっていた人もいる。  討たぬうちに、敵のほうが旅で病死してしまったのもある。  追いつ追われつしているうちに、双方が仲よくなってしまい、敵討ちをやめにしたケースもある。  ま、当人同士はよいとしても、双方の家族、係累《けいるい》は非常な迷惑をこうむることになるのだ。  真の武士であれば、人を殺したら、その場で自決するべきであって、そうなれば事件の処置もうまくゆく。  とにかく、私のように時代小説を書いているものが敵討ちのテーマにこころひかれるのは、討つものも、討たれるものも絶えず人生の断崖をわたりつつ必死懸命の生活模様を展開してくれるからだ。  そこに、人間の善と悪、かなしみとよろこび、美と醜がさまざまな〔かたち〕をもって鮮烈に露呈《ろてい》される。  今度、上演される〔沼津〕の段は、いうまでもなく、荒木又右衛門・渡辺|数馬《かずま》が河合又五郎を討った事件に取材した〔伊賀越道中双六《いがごえどうちゆうすごろく》の一節だが、近松半二の脚本は実に巧妙なもので、沼津の場はことに、敵討ちの蔭にひそむ人間像をとらえ、|こってり《ヽヽヽヽ》としたドラマの味覚をたんのうさせてくれる。 〔伊賀越〕は、この事件の忠実な劇化ではむろんないけれども、この〔沼津〕を見ただけでも、日本の敵討ち史上に、十兵衛や平作やお米が存在したことを、見物のわれわれは知るのである。  私が〔沼津〕の舞台に魅了されるのは、ここのところなのだ。  理由は何であれ、人ひとりを殺傷することによっておこる周囲の人びとの苦難は、むかしもいまも変ることがない。 [#地付き](歌舞伎座五月興行プログラム・昭和四十三年)  [#改ページ]   一度だけ  長谷川伸先生が、私に、こんなことをいわれたことがある。 「むかしねえ、吉川英治さんと一緒に講演旅行をしてね、たしか、甲子園のホテルへ泊ったときだったとおもうけど……翌朝、吉川さんがぼくらのいる部屋へあらわれて、終りましたよ、やっと……とただそれだけいったんだがね。何が終ったかというと、前の夜からその朝にかけて、例の宮本武蔵の最終回を書き終えたのさ。そのときの吉川さんの顔を、ぼくは忘れないねえ……ながいながい苦労を……ということは、つまり渾身《こんしん》のちからをかたむけつくして、ながい間、武蔵を書きつづけてきたのが、ようやくに今朝で終ったというよろこびが、つかれ切った顔に、こうにじみ出ていてねえ。あとはだまって茶をのんでいるんだが……とにかく、あれこそ筆舌につくしがたい作家の顔というものだったよ」  そのときは、長谷川師も吉川先生も、まだまだ御元気で、私はといえば、毎年、直木賞の候補にあげられながら、そのたびに落ちつづけている、というところであった。  私は、計六回の候補にあげられ、その六回目に直木賞をもらったのだが、第一回目の候補作は、信州・松代《まつしろ》藩の御家騒動をあつかった〔恩田木工《おんだもく》〕というもので、直木賞の選考委員の一人であった吉川先生は、この小説を大へんに気に入っておられ、その後、いつになっても私が賞をとれないでいるものだから、 「池波君は、一回目にとらせたかったなあ……」  と、洩《も》らされたということを人|づて《ヽヽ》に私は何回か耳にした。私の年代のものは、だれでも吉川先生の小説のファンであった筈《はず》である。お目にかかったことはなかったが、胸底に敬愛する先生の、こうしたことばをきくとき、私も大いに発奮したものであった。  六回目に、好運にも直木賞がとれたとき、吉川先生は軽井沢から祝電を下すった。  その翌年……。  寺内大吉氏が直木賞をもらったときの祝賀パーティで、私は、はじめて吉川先生にお目にかかった。 「はじめまして……」  と、あいさつをするや、先生は、 「いや、ぼくは、はじめてじゃないよ」  にこにこと、いわれる。 「は……?」 「いつか、穂積驚《ほずみみはる》君の受賞パーティのとき、君の姿を遠望したことがある」 「さようでございましたか……」 「あれが、君か……と、思ってね」 「どうも……」 「賞がとれて、よかったねえ」 「はい」 「やってますか?」 「一所懸命、やっております」  こういうと、先生は大きくうなずかれ、 「|いっしょけんめい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に、おやんなさいよ」  と、一句一句、区切りをつけるように、ちからをこめて、私の眼を凝視しながら、そういわれた。  そのときの温顔は、いまも私の胸底へ、そっとしまいこまれている。  この夜、先生は急にお加減がわるくなられ、青い顔色になられてお帰りになったが、すでに病状はすすんでいたのだと、後になって杉本苑子さんからうかがったのである。  吉川先生とは、それきり、お目にかからぬまま、ついに先生の葬儀の日を迎えた。  葬儀の参列者を撮った写真が、ある週刊誌にのせられ、先輩諸家がずらりと居ならぶ後方に、私の顔がちらりとのぞいているのを見たことがある。  私は、自分の悲しげな顔というものを、このとき、はじめて見たのであった。 [#地付き](吉川英治全集第十七巻「宮本武蔵」月報・昭和四十三年九月) [#改ページ]   浅草  年をとった故か、このごろは、よく、生まれ育った浅草へ出かけて行く。  むかしなじみの〔食べものや〕も、まだいくらかは残っているし、なによりも自動車の通行を禁じた〔六区〕の盛り場を、のんびりと歩けることがたのしく、うれしいのである。  私は、〔観音さま〕の北、大川(隅田川)に面した聖天町《しようでんちよう》に生まれ、のちに浅草・永住町へうつり、戦火に家が焼かれるまでは、そこに住みつづけていた。私が海軍にとられたあとは、祖母と母が、何度も家を焼かれながら、東京中を逃げまわっていたものだ。  ああなると、根っからの東京者は逃げるところもない。  そのころ、山陰の航空基地にいた私に母が、 「焼けただれた浅草に、今年もほうずき市(四万六千日)がたちます」  と、手紙をよこした。  このときの、なみだぐましいまでの心強さ、うれしさは、浅草に生まれ育ったものでなくてはわからないことだろうとおもう。 [#地付き](随筆サンケイ・昭和四十三年十二月号・風景の中の私) [#改ページ]   このごろ思うこと  維新動乱が終り、明治新政府成って間もなく、新政府要人たちが「欧米全権使節」として、ヨーロッパ・アメリカへ出かけたことがある。  この一行の中にいた参議・外務卿の大久保利通が、日本の留守をあずかる盟友の西郷隆盛へアメリカで撮った自分の写真を送った。  ひげをたくわえ、シルク・ハットをかぶりモーニングなどを着込んだこの大久保の写真をうけとった西郷が、 「貴兄の写真まさに受けとったが、いかにも醜態をきわめておられる。二度と、このような写真などを、おとりなさらぬがよろしい。  まことに気の毒千万な貴兄の顔かたちを見て、なみだがこぼれ申した」  と、きめつけている。  西郷の外国ぎらい、国粋主義的な信念のつよさがよくあらわれた挿話として知られているこの「はなし」であるが、西郷は外国文明をこれから吸収してゆかねばならぬ日本人としての「こころがけ」について、大久保を諷《ふう》したものであろう。  写真も「つかいみち」をあやまっては、人間のこころをさえむしばむものとなる。  先年ある知名人が、いまや息をひきとらんとして苦しげにあえいでいるところを、見舞いに来た男が、おそれげもなくパチパチと小型カメラで撮影している情景を見て、筆者は唖然《あぜん》としたことがある。  死顔(デスマスク)をとるということもある。  しかし、それはあくまでも安らかな死顔であったときにのみ、死者の肉親の許可を得てとるものであって、いまや死なんとする人の苦悶《くもん》の表情をカメラにおさめることは、まだ、いのちある人への冒涜《ぼうとく》以外のなにものでもない。  自分の、そんなところを撮られて、だれがよろこぶ者がいようか……。  このように近代文明のおそるべき発達は、これをあつかう人間のこころ一つで、どのようにも変化するのだ。  いまの東京都内における自動車の洪水は、「文明の利器」が、ついに「文明の凶器」となったことを、つくづくと思い知らされる。  大都会なぞというものではない。  都会というものは人間が住み暮すところで自動車の置場所ではない。  自動車ひとつを制御《せいぎよ》出来ぬ政治が、なんで新しい「国づくり」なぞが出来よう。  まさに現代は、古今未曾有の殺人時代である。  犯人のいない殺人時代なのである。  百年のむかし……。  かの「征韓論」にやぶれ、鹿児島へひきこもった西郷の心事は、意外に、そう単純なものではなかったのではあるまいか……と、この秋、西郷隆盛伝一冊を書き下した際に、ふと考えてみた。  あのころ、眼の色を変えて外国文明、外国文化に飛びついてゆく東京政府と、東京という「新首府」にあつまった人との生態を見て西郷は百年後の現象を直観したのではないかと思われるフシがある。  むろん、それが、どのような「かたち」になってあらわれるかは彼も不明であったろうが……。  封建時代の「害悪」については、ここにのべる余裕はない。  しかし、そのころは日本諸国が、それぞれの大名によっておさめられ、それぞれの風土と風俗にふさわしい「文化」がつちかわれていった。このことは厳然たる事実である。  ところが現今は、すべてが、東京中心のジャーナリズム文化によって単一化されようとしている。  地方文化の発達なくしては、日本の国土も日本人のこころも、みなアメリカ文明の異質を異質と知らぬままにうけ入れてしまう国籍不明の国民になってしまいかねない。  それが世界連邦の、平和民族の「さきがけ」になるのだ、という者さえ、今日はあらわれている始末だ。  アメリカの文化は、アメリカの、あの広漠《こうばく》たる国土に生まれ育ったものである。  小さな島国の日本は、この「いれもの」に入るだけの外国文明を取り入れればよろしいのである。  それでないと、日本人のこころは荒廃するばかりだろう。  人間の進歩というものは、いまだに原始形態をとどめている。われらの肉体構造の「秘密」と「本体」を熟知した上でこそ、おこなわれるべきものだ。  人間の肉体はまだ、清冽《せいれつ》な空気と水と、足で歩む道路が必要な段階から、一歩も進んではいない。  こうした意味で、私は、大好きな九州全土の「発展」を、こころからのぞんでいるのである。 [#地付き](九州人・昭和四十三年創刊号)  [#改ページ]   二十余年前  東京都には、まる十ヵ年、お世話になった。  終戦後、復員して来ると、なにもかもめんどうくさくなり、毎日、居ねむりばかりして暮していたが……。  すると、あの〔発疹《はつしん》チフス〕の大流行となった。  この敗戦流行病が、どのような猖獗《しようけつ》をきわめたかは、知る人ぞ知るだ。  進駐軍命令によって、都庁はこのチフス撲滅のため、臨時職員の大募集をおこなった。  日給二十円だという。  月に六百円であるから、昭和二十一年度においては、かなりの高給といってよい。 (退屈しのぎに、やって見るか)  ぼくは、のそのそと都庁へ行き、簡単な面接の後、採用された。男の人手不足のときだから試験もなにもなく、すぐさま上野車坂の下谷区役所(現台東区役所)へ配属された。  ここは上野地下道に群れあつまる無数の浮浪者を抱えていて大変なところだ。  それから約五ヵ年。  臨時から保健所の正職員になり、ぼくは防疫の仕事を夜も昼もなくやりつづけたものだ。  深夜でないと、浮浪者の人たちが上野地下道へ充満しないので、深夜から払暁《ふつぎよう》にかけ、学生アルバイトの諸君をつれて、地下道へのりこむ。  DDTの撒布で、白一色にけむる地下道で、ぼくは何万回、発疹チフス予防の注射をやったことだろうか……。保健所の医師だけでは、とても足りないからであった。  当時、月給を上回る超過勤務手当が出たことをおぼえている。 「ろくなものも食べずに、よくはたらいたもんだね」  と、いま、当時の同僚や学生諸君と会って語ることがある。  そのころの学生アルバイトの人たちは、実によくはたらいてくれたものだ。いまはみな、社会人として立派な地位についている人たちが多い。  五年後。  防疫の仕事から税務事務所へ転じ、やがて退職し、小説書きとなったぼくであるが、いまも、上野公園へ行くと、まったく、むかしのかたちをとどめぬ美麗な公園となったのを見て、 (このあたりは浮浪者部落がいっぱいだったものだが……)  二十余年の歳月のあわただしさを、いまさらにふり返って見るおもいがするのである。 [#地付き](都庁週報・昭和四十三年)  [#改ページ]   新進画家  人づてに聞いた話なのだが……。  ある新進洋画家いわく。 「今のうちに僕の画を買っておけば、買った人は将来、きっと大へんな得をするんだがなあ」  大へんな自信である。  その画家が親しい知人に自分の作品を贈ったのだそうだ。  できあがった画を持って知人の家を訪れるその朝まで、画家は、たゆむことなく検討し、手を加えた。  画が知人の家の壁を飾ってからもなお画家は時折り訪れては、検討と仕上げをつづけた。 「今のところでは、これでやっと、僕は満足しました。でも、またいずれ手を加えることがあるかも知れません」と、その画家は知人に語った。  自信と慢心の境界の危機を、この画家は自分自身へ課したきびしい検討によって切り抜けているとみえる。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十三年)  [#改ページ]   残心  恩師・長谷川伸先生が亡くなられて、六年になる。  時折、二本榎《にほんえのき》の亡師邸へ未亡人をたずねる。  語りあって、辞去する。  私が玄関を出て、門へかかり、潜戸《くぐりど》をあけて、外へ出る。そこまで未亡人は見送って来て下さる。  門から道路までの石段を下りる。  下りたところで、私は、もう一度、門の潜戸をふり返る。  すると、かならず、未亡人の顔がそこにあって、私をまだ見送っていて下さる。  そしてもう一度、目礼《もくれい》をかわしてから、私は電車道の方向へ去るのである。  未亡人は、むろん私にだけそうなさるのではなく、どの来訪者に対しても、同じような見送り方をされる。  来訪者の姿が見えなくなるまで見送る。帰るものも、見送っていて下さるとおもい、もう一度ふりむいて目礼をする。  つまらぬことをくどくどと書いたようだが、こうした所作《しよさ》というものは、まだ、私どもが子供のころにはだれもがしたことであって、そこに人と人との心のふれ合い、あたたかいこころよさがかもし出されるのだ。  電話のかけ方にしても同様であろう。  はなしが終り、ちょっとの沈黙がある。たがいに電話を切るまでの一瞬の間に〔こころ〕をのこすのであって、その一瞬の間があれば、もうどちらが電話を切っても、大へんにこころよい後味がのこる。  先ず近ごろ、こうした電話のかけ方、受け方に出会うのは十のうち二、三あればよいほうであろう。  この〔こころ〕は、剣道でいう、いわゆる残心《ざんしん》というものである。  この残心ということばを、いま、こころみに辞書で引いてみたら、私の机上にある四つのうちの辞書の中で、わずかに〔広辞苑〕のみに記載されてあった。  日本語の辞書の大半に、この言葉が消えているとおもってよろしかろう。なるほど、日本の辞書からも消えた言葉を現代人が実践《じつせん》するわけはあるまい。  しかし、いまの若い人たちの中にも、これをおのずと身につけている男女が、まだ少々ながら残っているのは何よりもこころづよいことだとおもう。  残心は、こころの余裕から生まれるわけだが、むかしの東京に住む人たちは期せずして祖父母や、両親の、こうした所作を見ながら育っていったものだ。  俗に「三代目からが本当の江戸っ子」だ、などという。  これは、徳川幕府の本拠たる江戸の町をおさめていた法制、道徳、礼節というものが住む人の身につくまで、三代はかかる——ということをさしたものだ。  東京が江戸とよばれていたころから、地方人があつまり住みつく都市であったことは、むかしもいまも少しもかわりがない。  しかし、現代の東京は、まるで無法制、無道徳の都市と化してしまっている。  先ごろ。  薄給の少年工員が月賦で自動車を買い、これを乗りまわしているうち二人のひとをひき殺した。その賠償金がはらえぬのを苦にした少年の母親が祖母と共に自殺して果てた、というのである。  この母親と少年の給料を合せて三万円ほどにしかならなかった……そういう家の子が自動車を月賦で買い、車庫がないため、これをせまい道路において、ドライヴをする。そして人をひき殺してしまう。 (ついに、ここまで来たか……)  と、私は暗然《あんぜん》となった。  日本の政治は、大きな問題ばかりにとらわれすぎ、内政がめちゃめちゃになってしまった。何ごとも泥縄主義であって、人間の生態に即応する施政者の感覚は、封建のころよりもはるかに低下、下落してしまった。  これではもう、近い将来に、国家としての大きな仕事は何も出来なくなることだろう。  私は、ふたたび〔残心〕の二字が、あまねく日本語の辞書にのる日をのぞんでやまない。 [#地付き](スクラップブック・昭和四十三年)  [#改ページ]   悪のなかの善  小説とちがって、こういう原稿ほど書きにくいものはない。  私や、私をめぐる友人たちなどは、いずれも平々凡々の交際を淡々とつづけているだけのことで、これをそのまま原稿にしたところで、読者には何の興味もあるまいとおもう。  こころみに〔悪友〕という語を辞書でひいてみると、 「……交《まじ》わってためにならぬ友」  などとある。  しかし、一般の常識からいって、この定義に当てはまるような私の友人は、みな戦死をするか、行方知れずになってしまっているのだ。  私は十三の年から世の中へ出てはたらいてきているが、その〔はたらき場所〕が〔場所〕だけに、いわゆる〔悪いこと〕は、みんなおぼえてしまった。  むかしの株屋というものは一種特別の職業で、友人……というよりも〔悪先輩〕が、十六、七になる後輩へ、酒の飲み方から女あそびまで、|こんせつていねい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に教えこむ。  兜町《かぶとちよう》の同じ店には私の〔また従兄《いとこ》〕が二人もいて、このうちのTが、先ず私の〔悪先輩〕ということになろう。  十六の年に、Tが、 「もういいだろう。早いうちがいいから……」  と、まじめな顔つきでいい、吉原へつれて行き、|あそび《ヽヽヽ》をおぼえさせてくれた。  こういう場合、先輩は連れて行く後輩の性質や好みをじゅうぶんにわきまえてい、これに合うような妓《おんな》を見つけ出し、 「たのむよ」  まじめに、たのんでくれる。  私ならずとも、十六や七の少年を〔童貞〕から|育ててゆく《ヽヽヽヽヽ》たのしみがあるから、妓も決して悪いようにはしない。  これが、Tのいう、 「早いうちがいいから……」  になるのである。  先ず、十近くは年上の妓に甘ったれて遊ぶのだから、向こうも可愛いがってくれるし、決して病気などにかからせるものではない。  酒の飲み方、人さまとの交際《つきあい》の仕方まで教えてくれるし、私の場合など、 「おっ母さんが心配するから、泊っちゃあいけませんよ」  などと、いう。  これはもう、母などにとって実に安心なもので、私が出征するときなどは、吉原の妓のところへ、 「ながなが正太郎がお世話さまになって……」  と、礼にいったものだ。  また、同じ店で違う妓とあそぶわけにはゆかないから、いきおい一人の妓をまもることになってしまうし、だからもう、現代の若者が素人娘とフリー・セックスをたのしむのにくらべたら、至ってまじめなものだ。  そのかわり、結婚もしないのに素人娘へ手を出したりすると、 「あ。あいつはもういけねえ」  たちまち、仲間外れにされてしまう。  至ってもう、まじめなもんだ。  だからお女郎と遊んでも、私などは素人娘の手をにぎったこともない。  そのかわり、あたまの中も躰《からだ》の中も、いつも、|せいせいはればれ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》としている。  先夜も、有馬|頼義《よりちか》さんと食事を共にしながら語り合ったことだが、有馬さんも|その方《ヽヽヽ》では早い年齢のうちに、やるべきことをやりつくしておられて、 「だからわれわれ、あの戦争中でも、あまり灰色の青春なんてものを感じなかったのだなあ」  と、いわれた。  そのかわり、戦後の、あの欠乏時代がやって来ても、あまり万事に|あせらない《ヽヽヽヽヽ》ですんだ。  いい着物を着たいともおもわぬし、私などは、 「西洋乞食」  だなどといわれたけれども、気にならない。  パチンコなぞというものも、むかしの兜町にいたものにとっては、あまりにバカバカしすぎてやる気も出ない。  こういうわけで、私などは迷わずに、現在の仕事へつながる道へ、わき目もふらずにすすむことが出来たようにおもう。  また、あのころの悪友や悪先輩によってみちびかれた〔世界〕がなかったら、とてもとても〔小説書き〕などにはなれなかったろう。  だから彼らは私にとって〔悪〕ではなく、あくまでも〔善〕の友人たちなのである。  悪の中にも善があり、表向きは善の中にも悪の芽がひそんでいることを考えれば……などと、むずかしいことをいい出してもはじまるまい。  こうして、現在の私がもっとも大切にしている友人たちは、小学校時代からの人びとで、数少い、これらの友人たちは下手な親類たちよりもずっとたよりにもなるし、ありがたい存在なのだ。 「へえ……小学校時代の友だちと、まだつき合いがあるんですか。しつっこいなあ」  などという人もいるが、戦前戦後の交友関係は全くちがってきている。むかしは小さな息子たちの友情を親たちが、はぐくんでくれたものだ。  いまは、それぞれにいそがしすぎ、友情をあたためる時間がない時代になってしまっている。  友人たがいに、たがいの家庭を訪問し、たがいの家族たちとも親しく近づきになる……などという交友関係は、近頃あまり流行《はやら》ぬらしい。  したがって、家庭内の女たちは客をもてなす術《すべ》をうしない、その術に|みがき《ヽヽヽ》がかからなくなってしまった。それはそれでよいのであろう。  たとえば名刺などでも、仕事先の住所・電話番号だけで、自宅の|それ《ヽヽ》は刷り出していなくなった。  交際は勤務の|ついで《ヽヽヽ》ということになり、仕事関係が絶えれば、もう、つき合うこともない。  私が世の中へ出たころは、どの人の名刺にも〔つとめ先〕の|それ《ヽヽ》と共に、自宅の住所が刷りこんであったものだ。 [#地付き](小説現代・昭和四十四年一月号・悪友名簿)  [#改ページ]   わたしの青春記  一昨年から去年にかけ、「小説新潮」へ〔青春忘れもの〕と題して連載した私の回想記のようなものが、このほど一冊にまとまり、読み返して見て、やはり書いておいてよかったとおもった。小説を書くのとは別に、こうしたものを書くことは、いろいろな意味でむずかしいのだし、また私のようなものの〔青春記〕を加工もせずにそのまま書いたところで、 「読者が読んでくれるか、どうか?」  何度も辞退をしたが、「小説新潮」編集部の川野れい子さんは、 「絶対に読みます」  と、いわれ、熱心にすすめてくれる。それで重い腰をもちあげて第一回目をのせたところ、望外な好評を得て、ぶじに一年の連載を終えた。  そのおかげで、むかしの知人たちとも会い、忘れかけていた記憶をたしかめることを得たし、おもわぬところから資料を送られたりして、私個人としては、やっておいてよかったことになる。 〔青春忘れもの〕を毎月読んでくれていた旧友のひとりが、 「お前は、ちっとも苦労なんかしていないじゃないか。まったく、しあわせな男だよ」  と、いうし、京都の古い知人の、あるお茶屋のおかみさんも、 「いいこと、うれしいこと、たのしいことばかりしていやはった」  という。  ま、それにはちがいないが、これで私なりの(苦労)もいろいろとあったのだ。  しかし、この青春記の主要人物の一人で、いまは亡き再従兄《はとこ》の滝口幸次郎が少年の私にいったことばで、 「自分の苦労ばなしと、色ごとのはなしは、大っぴらに他人に語るものではない」  というのがあり、それが今の私にもこびりついていて、あまり苦労ばなしはしないことにした。  むしろ、私の真の姿は、私の小説のほうにあらわれているようにおもえる。  それにしても、十三歳から世の中へ出てはたらいたことは、いまとなって見て、まことに貴重な財産になった。  もしも、上の学校へ行っていたら、そのまま兵隊へとられてしまい、かの十五代目・羽左衛門氏や、元外相・重光葵《しげみつまもる》氏などに、親しく口をきいてもらった、その鮮烈な感動もなかったろう。  あの人たちにとっては、何でもないことだったかも知れぬが、少年の私にとっては、実に強烈な印象を心身にたたきこまれたおもいがしている。  麹町《こうじまち》の重光邸の、バス・ルームの一隅に、夏の夕陽をうけて光っていた重光氏の白い松葉杖……その光景が突如として、四十をこえ、五十に近くなった現在の私の夢にあらわれることがあるのだ。  そして……。  この青春記を書き終えると、妙に、私は気もちが若々しくなったようで、生活に張りが出てきた。  何となく、おれも三度目の青春をとりもどして、いろいろとその、やって見ようかな……などとおもっている。  それをきいて旧友ども、 「世の中が、ぶっそうになる」  という。  だが、それは(気分)だけのもので、もう何といっても躰がいうことをきかない。  真の(青春)には、やはり若い肉体が必要なのである。 [#地付き](新刊ニュース・昭和四十四年三月一日・一六五号) [#改ページ]   気風《きつぷ》と律義《りちぎ》と  東京の下町、浅草・本所・深川なぞという土地《ところ》には、あれだけ戦災に焼けだされた町ながら、むかしの人びとが、むかしのままにもどって来て住み暮しているらしい。戦前の下町は、一つの町内が一つの家族のようなものであった。そういうと妙にわずらわしくきこえようが、そこは何代もつづいて同じ町に住み暮している一種の洗練があって、女たちも虚栄や|ぜいたく《ヽヽヽヽ》から全く無縁の、さばさばと胸のうちをさらけ出した生態を見せ、何事にも他人に|めいわく《ヽヽヽヽ》をかけまいとする意地と、徹底《てつてい》した律義《りちぎ》の気風とが下町女の看板であった。  上方女が、東京下町の女の会話をきいて「喧嘩《けんか》しているのやないか?」と思ったほど、戦前までのことばつきから物腰《ものごし》は、きっぱりときまっていたものだが……そのかわり、|なよなよ《ヽヽヽヽ》と、|しっとり《ヽヽヽヽ》と、男につくし、男につかえる情趣はない。男との間がもめてきても、めんどうくさくなれば、さっさと身を引いてしまうようなところがあった。  ところで現代《いま》の下町女たちの気風はどうなのか……ぼくは知らない。 [#地付き](小説エース・昭和四十四年三月号・おんな風土記東京下町) [#改ページ]   鍵屋の辻をゆく   荒木又右衛門と師・長谷川伸  本号に再録《さいろく》されている私の〔荒木又右衛門〕は、昭和三十八年二月に〔小説新潮〕へ載《の》せられたものである。  たしか四十二枚ほどの短篇であって、いわゆる〔剣豪小説〕の特集の一篇として、私に〔荒木〕を、という編集部からの依頼であった。  荒木又右衛門が助太刀をし、義弟・渡辺|数馬《かずま》に河合又五郎を討たせた事件は〔伊賀上野の仇討ち〕として有名である。  だが、この事件は〔仇討ち〕のようでもあり〔上意討ち〕でもあり、その背後には、徳川幕府と大名との関係……さらに大名と旗本との紛争《ふんそう》が複雑にからみ合ってい、単なる仇討ちには見られぬスケールの大きさがある。  これを四十枚の小篇で、どのように書き得るか……荒木又右衛門については、私なりに材料を持っており、書きたいとおもっていた人物であったし、この小篇の中に、あの事件を過不足なくえがき、当時の特殊な時代相をもしっかりとらえ、しかも、せせこましい感じを読者に抱かせぬように執筆したい。そう考えた。  私の恩師・長谷川伸には史伝小説としての名作〔荒木又右衛門〕の長篇があって、これは昭和十一年に当時の都新聞(現在の東京新聞)へ九ヵ月にわたって連載されたものである。  荒木についての〔資料〕として、師の作品以外の良質なものを、私にはもとめ得ない。  これは、われわれが新選組を書く場合、何よりも故子母澤寛氏が執筆された〔新選組〕を根本資料として、構想をすすめざるを得ないのと同様であって、 「実は、荒木を書くことになりましたので」  と、いまは亡き長谷川師のもとをおとずれるや、 「僕のもので役に立つのなら、いくらでも参考にしたまえ」  言下に、そういわれた。  新選組を書いたときも、子母澤氏へあいさつにうかがうと、 「お役に立つのなら、いくらでも」  である。  こうした先人たちは労苦を重ねた末に結実を見たものを、こだわりもなく、若い者へ提供して下さる。  こうして、私は自分なりに用意した資料と主題をねりかためたところで、じっくりと、長谷川師に教えていただいた。  それは昭和三十七年の十二月のことで、師は四時間にわたり、私の質問に応じて下すった。  翌三十八年の一月一日の夜。  二本榎の師邸へ年始にうかがうと、師は非常に憔悴《しようすい》しておられ、年始客がほとんど去った茶の間の炬燵《こたつ》で、喘《あえ》いでおられた。  すぐに辞去するつもりで玄関まで出たのだが、虫が知らせるというのか、たとえ二、三分でも師の声がききたくなり、茶の間へ引返して、お茶をいっぱい頂き、約五分の後に辞去した。 「荒又《あらまた》を君はどう書くのか、たのしみにしているよ」  と、師はおっしゃった。 「どうもこうも、手も足も出ません。ただ寛永の武士を書くつもりです」  と、こたえると、師は、 「それでいいのだ」  大きく、うなずかれた。  この夜かぎりで、私は再び、師の声をきくことを得なかった。  月末に、長谷川師は、その年の異常な寒波のため持病の肺を冒《おか》され、約半年の闘病の後に亡くなられた。  むろん、私の〔又右衛門〕を読まれる|ゆとり《ヽヽヽ》はなかった。   初冬の鍵屋の辻 〔又右衛門〕を執筆する直前に、三日ほどの暇が出来たので、私は伊賀上野を見に出かけた。  朝、上野へ着き、市中の小さな宿屋で入浴と朝飯をすまし、早速に、双方の決闘がおこなわれた〔鍵屋《かぎや》の辻《つじ》〕へおもむいた。  鍵屋の辻は、まるで時代映画のセットを見るような、往年《むかし》の|おもむき《ヽヽヽヽ》を濃厚にたたえている。  今度、五年ぶりに出かけて見たが、まわりの道路が整備され、又右衛門・数馬の一行が決闘の直前に休息をとった茶店〔万《よろず》屋〕の跡の〔数馬茶屋〕のまわりが、いくばくか観光的な体裁《ていさい》をととのえているようになった……その程度《ていど》の変化で、依然《いぜん》、周辺の情景は往時を|ほうふつ《ヽヽヽヽ》とさせる。  ことに、鍵屋の辻に立ち、奈良へ向う街道を望見したときの感動は、五年前の朝と少しも変らなかった。  街道の彼方に長田川がながれ、そこに長田橋が、かかっている。  この橋上まで、荒木の家来・岩本(森姓ともいわれる)孫右衛門が見張りに出て、奈良の方角から上野の城下を目ざして進んで来る河合又五郎一行があらわれるのを待った。 「河合党があらわれたなら、孫右衛門。小唄をうたいながら、あわてずに、ゆっくりと、ここへ引き返してまいれ」  と、又右衛門が命じたのはこのときである。  その決闘の朝……敵も味方も、この辻を生死の境いとした寛永十一年(一六三四)十一月六日という、三百数十年前の風調が、鍵屋の辻にも伊賀上野の町にも残されているのはたのしい。  さらに……。  鍵屋の辻から、真直ぐに街道をすすみ、長田川をわたると、三軒屋・札の辻で道は二つに分れる。  右が奈良街道。  左が、与右衛門坂越えの山道。  この二つの道は、島ケ原の宿場で合する。  島ケ原宿へは、前夜、河合一行が泊っている。  その河合又五郎が泊ったという旅籠《はたご》の旧跡が残っていたのだが、最近、すべて取りこわされてしまった。  それでも、このあたりは、伊賀上野より、もっと色濃く、往時の雰囲気《ふんいき》がたちこめている。  十一月五日の朝に奈良を出発し、江戸へ向う河合一行が、この島ケ原宿へ到着したのは、その日の午後。行程《こうてい》八里を五時間という強行軍であったという。  これを追って、島ケ原宿へついた荒木又右衛門は〔決闘の時〕を明朝ときめ、夜に入って、与右衛門坂で野宿し、翌早朝、まだ暗いうちに、山道を三軒屋へ下った。  やがて、島ケ原宿を出発した河合一行が、これは奈良街道を通って三軒屋へあらわれる。  ここから先、伊賀上野の城下まで街道は一すじである。  すでに、荒木一行は鍵屋の辻へ先着してい、河合一行を待ちうけていたわけだ。  私は、奈良街道を島ケ原まで行き、そこからまた、上野の城下へ引返して見た。  この感じもわるくない。  長田橋のたもとで、車を捨て、彼方に、伊賀上野城の天守をのぞみながらゆっくりと歩いて見るのもよい。  ことにそれは、冬の朝がよろしい。  今度は、あたたかい十一月の末の或《あ》る日であったが、五年前は一月中旬の寒気きびしい朝であった。往時をしのぶに適切な、種々の素材を得たものである。  決闘が開始され、鍵屋の辻から、小田|博労《ばくろう》町のあたり、それから渡辺数馬と河合又五郎の決闘が、くり返しつづけられた北谷道は、上野城のうしろにあたる。  二人の決闘は前後六時間にわたるという、すさまじいものであった。  技倆《ぎりよう》が伯仲《はくちゆう》していたものであろう。  荒木又右衛門は、この間、義弟・数馬につきそい、これをはげましつづけたが、みずから又五郎へは手を下していない。  現代の観光から忘れられたかのような伊賀上野だが、これからどう変貌《へんぼう》してしまうか知れたものではない。  見るなら、いまのうちである。 [#地付き](歴史読本・昭和四十四年三月号)  [#改ページ]   食道楽  東京に生れ育ったものには、日常、蕎麦《そば》が欠かせぬ。  蕎麦やはどこにでもあるが、その美味《うま》さ不味《まず》さの差は非常なもので、一見は単純におもえる食べ物ゆえに、尚更《なおさら》の丹念さが材料にも調理にも要求される。居職《いじよく》のことで、なかなかに、むかしからなじんだ店へも出かけられぬので、いま〔永坂《ながさか》・更科《さらしな》〕の本店やら諸方の売店で売っている干《ほし》蕎麦《そば》〔太兵衛そば〕と汁《つゆ》を買って来てもらい、家人にこしらえさせる。|あげ方《ヽヽヽ》も水洗いも好みのままにできるし、ほとんど〔更科〕へ行って食べるのと変らぬ味覚がたのしめる。  手打ちのくろぐろとした、ふとい|そば《ヽヽ》をあまり好かない私には、この干そばは実にうれしいもので、夜半のかるい腹ごしらえには絶好である。  ところで先夜……かねて評判たかい本塩町《ほんしおちよう》の〔丸梅〕の料理をごちそうになったが、〔向《むこう》〕からはじまって、ズイキの和《あ》えもの、子もちあゆ、野菜と水貝と次第に出てくるうち、腹も口も眼も、得もいわれぬ充実感にみたされてゆく|だんどり《ヽヽヽヽ》の|みごと《ヽヽヽ》さ。  コクのある、みち足りた味つけ。工夫の新鮮さなど、|りっぱ《ヽヽヽ》な懐石料理でありながら、家庭料理の誠意のみなぎりわたった料理に、すっかり|たんのう《ヽヽヽヽ》した。女主人みずから〔新懐石〕というそうだが、まさにユニークでダイナミックな日本料理ではある。  次に、これは食堂だが、長野市の善光寺大門前の〔銀扇寮《ぎんせんりよう》〕も、調理と接待にこもるまごころが、一皿のカレー・ライスにも|たっぷり《ヽヽヽヽ》ともられてい、メニュウもいろいろと|たのしげ《ヽヽヽヽ》であって、市民や旅人の味覚をよろこばせてくれる。 [#地付き](小説新潮・昭和四十四年三月号)  [#改ページ]   美女二十人の顔を占う  このごろ、タクシーの運転手の質が落ちて、 「乗るたびに、|はらはら《ヽヽヽヽ》し通しだ」 「行先をいっても、|ろく《ヽヽ》に返事すらしない」  などと、知人たちからよくきかされるが、このごろの私は|めった《ヽヽヽ》に、そんな不愉快なおもいをせぬ。  タクシーへ乗るときは、先ず、運転手の顔を見る。  となにか、ひらめくものがある。  そのひらめきが「乗るのはよせ」のときは乗らず、「乗れ」と命じたときは乗る。たいてい、人柄のよい運転手さんの車に乗ることができる。  いうまでもなく、これは運転手の顔相《がんそう》を知らず知らず見ているのであって、だから私のみではなく、人間はだれも日常生活において直感的に無意識的に、他人の「顔相」を見ながら暮らしているのである。  人間はだれも「人相見」なのだ、  といってよいだろう。  しかし、ただ漠然《ばくぜん》とやっているのでは進歩もない。  タクシーへ乗ることひとつだけでも、そのたびに、相手の顔相と、そのときの体験を記憶にとどめておくことによって、二年三年とたつうちには多くのデータがこちらの胸の中に蓄積されてゆくものである。   易や顔相は人生の薬味  私は、H氏という「人相見」の名人に年に一度は自分の顔を見ていただき、いろいろとはなしをきくことにしているが、そんなことをしなくても、信頼すべき人の書いた書物を読むことだけでも、大へんにちがう。  いろいろの易や占《うらな》いがあるけれども、まず顔相、手相が個々それぞれの「相」をあらわしている点において、|すぐれた人の鑑定があればぴたり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とあたってしまう。それは、おそろしいほどにあたる。  私の場合、自分にとって|よいこと《ヽヽヽヽ》はむしろ切り捨てて、忘れてしまう。  |わるいこと《ヽヽヽヽヽ》だけを注意して、胸にとどめておく。  それで大過なくすごせれば、それにこしたことはない。  易や顔相は、人生におけるすばらしい薬味であると、私はおもう。  むろん、私は専門的に研究をしたわけではないし、ただもう、勘《かん》ひとつで、この�薬味�を味わっているわけなのだが……。  職業がら、いろいろ益することが多いのだ。  それにしても、女性の「顔相」というのは、実にむずかしい。  変化の度合いにおいて、男性のおよぶところではない。  女の顔は、めまぐるしく変る。   十日で変る女の顔相  グラビアに登場する二十名に近い女の顔写真を私は拝見した。これらの人たちは太田八重子をのぞいて、ほとんど、いわゆる芸能人とやらいう人たちである。  ここにあつめられた写真は、いずれも職業カメラマンのレンズの前にポーズや表情をつくったものらしい。  みな、どの女性も美しくとれている。  だが、彼女たちが彼女たち本来の「顔相」を見せるのは、家庭の父母や兄弟や、恋人や良人たちの前においてであろう。  それより以上に、自分ひとりになったときであろう。  ここにのせられた写真にはないが、注文によって腋の下をわざとあげて見せたり、肉体の|そこここ《ヽヽヽヽ》を強調させられたポーズをとらされたりして撮られた女の顔には、いくらうれしげに笑っていても、本来の彼女自身の顔相はない。  大谷直子や鈴木紀子のように、これから芸能界へクローズアップされようとしている新人たちの顔には、まだナイーブなものがただよっているけれども、芸能界という魔界を泳ぎわたるにつれて、顔相は|ぐんぐん《ヽヽヽヽ》と変ってくる。  よく変ってくる場合はけっこうなことだが……。  桑原幸子だの若林映子だのは、気の毒に、彼女たちの顔よりも肉体のほうが強調される仕事ばかりしているから、顔相も乳房や|おへそ《ヽヽヽ》なみになってしまいそうだ。この二人の顔はいくらもよくなる素質をそなえている。  そういう意味で高橋レナなども、顔相としてはとびぬけてよいだけに、大切にしなくてはなるまい。  三浦布美子なども、いい顔相なのだが、去年、ある機会に実物を見たとき、その血色の悪さにおどろいた。女も男も、顔相にとって、非常に大切なのは自然の血色である。つまり血相《けつそう》というやつだ。三田佳子にも同じことがいえる。  奈美悦子、今陽子などの顔は、いまのところ、まだ可愛らしさだけで顔相としてはおもしろくもないが、この二人は、鼻のかたちといい、涙堂《るいどう》のふくらみといい大へんなエネルギーの持ちぬしだということがわかる。これからの彼女たちが、このエネルギーをどのようにつかいこなし発散させてゆくか、あと数年を経て、変化した彼女たちの顔写真を見たいものだ。  それと反対に、肉体のボリュームは立派でも浜美枝などは、これからよほど気をつけなくてはなるまい。いまのところ、この写真を見るかぎりでは、彼女の顔相は不幸のにおいがただよっている。  もっとも、前にのべたように女の顔相は、ときによって十日で、変ってしまうから現在の浜美枝は幸福な顔をしているのかも知れない。  たとえば岩下志麻などは、前には薄幸の顔相であった。  ところが、去年、かの「祇園祭」に出演したときの彼女をスクリーンで見て、そのあふれる色気のほどのよさと、女としての成熟の仕方が良好である顔つきになっているのを発見した。現在の彼女は、しあわせな生活を送っているのではあるまいか……。   顔を知ることは心を知ること  むかしは、女優たちもひっきりなしに写真を出されたり、記事を書かれたりすることもなく、しごくのびのびとしていて、私が少年のころ、若き山田五十鈴が地下鉄のシートにかけてのんびりと書籍を読んでいるところを見かけたことがあるけれど、同じ車内にいる人たちも山田と知ってはいてもあまりじろじろ見たりすることもなかった。そのころは舞台や映画の役者が、よく電車に乗っていたり、デパートでのんびりと買物をしていたりしたものだ。  いまの岸田今日子、安達※子に、そのころの女優のもっていた、のんびりした顔相がほのかに見える。この人たちを知っているわけではないが、あまり虚勢を張らぬナイーブなところをもった女性ではあるまいか……。  金井克子や星由里子など、デビュー当時から見ると、ずいぶん顔相が変ってしまっている。  どう変ったかは、ここではいうまい。  内藤洋子などの顔は変哲もないのだがこれは顔相からいうと、浅丘ルリ子と大へん似ているところがあるのはおもしろい。  それでいてこの二人、体質的には正反対なのではないだろうか。  山本富士子の|まっ白け《ヽヽヽヽヽ》な写真を見ても、正しい顔相はわかりにくい。ただこの人が非常に意志の強固な忍耐づよい性質をもっていることはわかる。  要するに人間というものは、そうした特質がわるいほうへのびず、よいほうにのびてゆけばよいのであろう。  顔相ということに関心をもつ以上、結局はデータである。  いかなる「人相見」の名人といえども、修行時代は、おのれの鑑定と、それにもとづくデータを何年も何年もかかって蓄積してゆき、確固たる自信をもつにいたるのである。  その意味で、芸能界の女性は、常人にくらべて数倍も、自分の顔を自分自身でたしかめているはずだから、彼女自身が、自分の顔相については直感的に多くのものを知っているにちがいない。私ごときが、写真一枚を見ただけでわかろうはずがない、彼女たち自身が顔相の真実を知っているはずだ。 [#地付き](新評・昭和四十四年六月号)  [#改ページ]   時代小説の食べもの  小説〔堀部安兵衛〕を書いたときのことだが……。  のちに、高田の馬場で、安兵衛と決闘をすることになる剣客・中津川祐見《なかつがわゆうけん》が、神田川沿いの〔船宿《ふなやど》〕で娼婦と寝ていながら、女に、西瓜《すいか》を買わせにやる場面を書いた。  その|ところ《ヽヽヽ》を〔ぬきがき〕してみよう。  むしあつい夜であった。  二階西側の、この部屋の下を流れる神田川から、物《もの》|うげ《ヽヽ》に西瓜を売る呼び声がきこえている。  西瓜を売る舟が|川すじ《ヽヽヽ》をまわるようになったのも近年のことだ。  西瓜は、百年ほど前の戦国の世に、オランダ人が日本にもたらした果物だ。そのころは南蛮渡来《なんばんとらい》の貴重な嗜好《しこう》食品であり、大名の茶の湯にもつかわれたほどで、庶民《しよみん》の口へ入るべきものではなかった。  それが、いまでは、 「あのような下卑《げび》たるものは、われらが食すべきものではない」  などと、大名や武家は馬鹿にしているし……ということは、それだけ、主食に関係のない果物が都会では安直に、だれの口にも入るようになったことになる。 「おい……」  祐見が|おさい《ヽヽヽ》の腰を指で押し、 「西瓜を買うてこいよ」 「のどが、かわいたのかえ?」 「それもあるし、どうも酒をのみすぎたようだ。西瓜は酒毒《しゆどく》を消すによい」  と、ある。  つまり、小説中の人物に西瓜を食べさせることによって、元禄初年の時代も書きあらわすことができるわけだ。  日本諸国に戦火が絶え、徳川幕府による天下統一が成ってから、七、八十年が経過し、ようやくに、町民たちも西瓜のような嗜好食品を口にするだけの|ゆとり《ヽヽヽ》ができたということなのである。  この少し前から、浅草の金竜山・浅草寺《せんそうじ》の門前町で〔奈良茶《ならちや》めし〕を食べさせる茶店が何軒も出来ている。  これは、茶飯に|とうふ《ヽヽヽ》汁、|煮しめ《ヽヽヽ》などをつけて客をよんだもので、これが大評判となった。  現代《いま》なら何のことはないのだが、そのころ以前の日本の人たちは家庭における食事以外、外を出歩いていて|もの《ヽヽ》を食べることがなかったといってよい。  その食事も、一日に二食であった。  というのも、夜の闇が下りれば、灯《あか》りをつけねばならぬ。その灯油やら|ろうそく《ヽヽヽヽ》やらが非常に高価なもので、よほどの金もちでないかぎり、 「暗くなればねむる。そして朝早く起きる」  というのが、一般の習慣であった。  何万石の身代《しんだい》がある大名たちでも、財政が行きづまってくると、何よりも先ず、夜の照明の入費《にゆうひ》を倹約したという。     ○  ま、こうしたわけで……。  むかしの人びとが口にしていたものを小説の中へ採《と》り入れるのは、書いているもの自身がたのしいことでもあるし、書くことによって、予想外の効果をあげ得ることがあるわけだ。  これは、もっとずっと下って、江戸時代も終りに近くなってのことをあつかった〔同門《どうもん》の宴《うたげ》〕という小説が、私にはある。  この小説の中で、中年の武士が二人、むかしの恋人と、浅草の駒形堂に近い〔和田平《わだへい》〕という鰻屋《うなぎや》で、酒をのみ、食事をするシーンがある。  私が、このとき、彼らが口にする食べものとして用意したのは、|うなぎ《ヽヽヽ》のほかにも、   浅漬の|うす《ヽヽ》打ち。   味噌漬の茄子《なす》。   わさびと煎酒《いりざけ》をそえた|しめ《ヽヽ》鯛。  などであった。  これを読んだ或《あ》る人が、 「うなぎ屋だから、浅漬や茄子のみそ漬はよいが……わさびと煎酒をそえた|しめ《ヽヽ》鯛なんて、そんな懐石料理じみたものを、うなぎ屋で出すものか」  と、いってくれたことがあった。  あるいは、しからむ。  しかし、この献立に根拠がないわけではない。  信州・松代《まつしろ》十万石、真田藩の家来で、江戸へ出て来たさむらいが、浅草の|観音さま《ヽヽヽヽ》へ参詣《さんけい》をした帰途に、駒形堂近くの〔うなぎ屋〕へ立ち寄り、酒食をしたためた折に、自分が口にしたものを日記へ書きのこしてある。  時代も同じころだし、そうなれば、小説の中につかってもおかしくはないのだ。  それに……。  むかしの女たちとたのしく酒をくみかわすシーンゆえ、いかに〔うなぎや〕といえども、香《こう》の物だけの|酒もり《ヽヽヽ》ではさびしい気がしたから、私は、この真田藩士の古い日記から|食べもの《ヽヽヽヽ》をえらんだのであった。  真田藩といえば……。  宝暦《ほうれき》の時代《ころ》に、藩の財政の|たて直し《ヽヽヽヽ》をやり、そのときの藩政改革の事蹟《じせき》が、〔日暮硯《ひぐらしすずり》〕という書物になって残されている、真田藩の家老・恩田木工民親《おんだもくたみちか》を主人公にした〔真田騒動〕という長篇小説を書いたとき、この恩田家老が信州名物の蕎麦《そば》を、家族たちと食べるシーンを挿入した。  膳には、久しぶりで蕎麦が出た。  恩田家に先代から奉公をしている老女中の|たま《ヽヽ》が自慢で打つもので、木工は、これを|大根おろし《ヽヽヽヽヽ》のしぼり汁に少し醤油をたらし、その涙の出るほどに辛《から》い|つけ《ヽヽ》汁で蕎麦を食べるのが好きだった。  というものだが、この食事の情景は、十万石の家老の食事がどのように質素なものかを蕎麦中心の食事によって感じさせることができる。  ことに、真田汁ともよばれる大根おろしのしぼり汁でそばを食べるという、当時の信州人の好みも出て、これを読んだ|あの地方《ヽヽヽヽ》の古老たちは、 「|つば《ヽヽ》がたまってきました」  などと、よろこんでくれたものだ。  江戸時代の武家よりも、むしろ町人のほうが|ぜいたく《ヽヽヽヽ》なものを口に入れていたようだ。  ことに元禄時代以後は、金銀が大都会の富商《ふしよう》たちへあつまってしまい、体裁は大きくとも、多くのさむらいたちは実に質素な日常生活を送っていたようにおもわれる。  近江・膳所《ぜぜ》六万石、本多家の重役の一人が、夕飯の膳についた食物を書きのこしているが、   大根の|なます《ヽヽヽ》。   しいたけと、とうふの煮物。   香の物に吸物。  と、たったこれだけである。  戦国時代になれば、もっと質素な食生活であったことは当然で、織田信長や豊臣秀吉といえども、現代のわれわれが口にしているものの豊富さにくらべたら問題にならぬ。  むかしの人たちは、牛肉を食べなかったなどというが、元禄のころ、赤穂浪士で有名な大石|内蔵《くらの》助《すけ》などは牛肉が大好物であった。  その当時から近江牛は有名であって、牛肉の味噌漬は高価でもあったが、内蔵助は時折、これを取りよせ、火に|金あみ《ヽヽヽ》をのせ、この上で牛肉を焙《あぶ》って食べたという。  内蔵助が、この牛肉を江戸の知人へ贈り物にしたとき、そえた手紙で長男・主税《ちから》(当時十四、五歳)のことにふれ、 「大へん栄養に富み、また、おいしいものではあるが、この牛肉などをせがれの主税などに食べさせますと、精がつきすぎていけないので、|めった《ヽヽヽ》に食べさせませぬ」  などと書いている。  もっとも、そのころの牛肉の味噌漬などは、酒のさかなや飯の菜《さい》にするというよりも、貴重な薬用の|かわり《ヽヽヽ》をつとめていたのかも知れない。  こうしたわけで、時代小説につかう食べものについては、いちいち調べた上で書かねばならないし、めんどうなことにはちがいないが、それをおこたらなければ、かならず、それだけの効果があるものなのである。  私の場合、調べてみても、その場面にそぐわないものだったら、食べもののことは書かぬことにしている。  また、その一方では……。  すこし時代がちがっていても、効果があがるのなら、|うなぎ《ヽヽヽ》でも|まんじゅう《ヽヽヽヽヽ》でも、かまわずにつかうことにしている。 [#地付き](小説倶楽部・昭和四十四年九月号・時代小説の手帖) [#改ページ]   「わたくしの旅」メモ  雑誌、新聞をはじめ、PR誌や同人誌に発表されたまま、本になっていなかったエッセイ二百五十数編を集めて五巻の池波正太郎未刊行エッセイ集となったが、「わたくしの旅」は、その二巻めにあたる。  書かれた年代からいえば昭和三十九年から昭和四十四年の六年間で、小説雑誌に短編小説を書きつづけ、週刊誌と新聞には連載を持ち、ようやく作家としての地歩が固まった時になる。  この時期に「鬼平犯科帳」の連載がはじまっているものの、「剣客商売」と「仕掛人・藤枝梅安」は鬼平のさらに五年後の発表で、まだ、「わたくしの旅」の頃は、くらしや旅を楽しむゆとりがあったにちがいない。  書名のもとになっているエッセイ「旅のメモから」、「道楽の旅」、「安兵衛の旅」などに、作者の心のはずむ様子がうかがえる。  特に、「道楽の旅」は、内外タイムスが企画した檀一雄、飯澤匡、花登筐、生島治郎ほかの作家による持ち回りの連載エッセイ欄に執筆したもので、各氏が気楽に愉しみで書いているのが伝わってくる。  この時期は、談話もかなり活字になってはいるが、本エッセイ集では、あくまで、本人が書いた文章に限った。�つねに作品数十本を用意�などと新聞の土曜訪問欄でインタビューに答えていて、なかなか興味深い談話もあるが収録しなかった。  編中、「時代小説の食べ物」は、「私が生まれた日」(朝日文芸文庫)に同タイトルのエッセイが見えるが、別文である。  タイトルが同じで内容がちがうもの、内容は同じで、少数だが、タイトルをあとで変えたものなどがあり、エッセイ集を編むのに注意すべきところだった。  痔用体操については、エッセイ「痔用体操」のあとに、当時、同愛記念病院の外科医長であった佐分利六郎先生が、「熱心な闘病精神に感心し、手術がいやなためにこんなにも辛抱強く養生するものかとつくづく考えさせられたが、やはり医師の診察を受け、正しい治療をすべき」との一文を寄せているので、記しておく。  五冊の未刊行エッセイ集は、おおむね、執筆発表順になっているので、「完本池波正太郎大成」の別巻に掲載されている年譜と併せてお読みいただくと、作家のたどった道すじが浮かび上がって興味深い。 「わたくしの旅」は、師・長谷川伸の引力圏外に出て、のびやかに軽やかに作家の人生をたのしみはじめた池波正太郎の余裕の産物かもしれない。 [#地付き](小島香・記)  [著者]池波正太郎(いけなみ・しょうたろう) 一九二三年一月東京生れ。下谷区西町小学校卒業後、株式仲買店に勤める。旋盤機械工を経て横須賀海兵団に入団。米子の美保航空茎地で敗戦を迎える。その翌竿、下谷区役所衛生課に勤務竈長谷川伸の門下に入り戯曲「鈍牛」を発表、上演。新国劇の脚本と演出を担当。一九六〇年、「錯乱」で直木賞受賞。「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」「剣客商売」の三大シリーズで絶大な人気を得る。吉川英治文学賞、大谷竹次郎賞(戯曲)、菊池寛賞を受賞。一九九〇年五月・六十七歳で逝去。 ※池波正太郎真田太平記館(上田市)、池波正太郎記念文庫(東京都台東区中央図書館内)で作品と生涯を偲ぶことができる。 (注)収録した文中に今日では差別表現として好ましくない、身分、職業、民族、身体障害、病名等に関する用語を含むものがある。これは、作者がすでに故人となっているため、著作権法上、無断の表現変更はできないという制約もさることながら、それ以上に、作品の持つ時代背景を重視し、あえて発表時のままとしました。